硝子をつなぎとめる結絃のカメラ『映画 聲の形』 | 小鹿のようにおぼつかず

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ブログのタイトルは、私が本格的にアニメにハマるきっかけとなった『放浪息子』のセリフから拝借しています。
アニメとか本とかについて語ります。
基本的にネタバレありでいきますのでご了承ください。

 『映画 聲の形』の秀逸な表現力の一つは、記号的表現によって視聴者の感情の動きを巧みに整理していることだ。

 

 登場人物の手足の所作や、あるいは花や小物などを、記号的に意味付けされるように映し、人物の感情や関係をセリフによる説明なしに視聴者に伝えている。それによって論理的情報の過剰を避けつつ、2時間強の映画の中に多くの出来事を盛り込むことに成功している。そして視聴者が、登場人物の感情の動きを追うことに専念できるようにもなっている。

 

 動作や物体が記号的に配置されている一方で、手などの動作は関節の動きまで現実的に描かれている。また物体も、ロケハンに忠実につくられた空間に無造作に置かれている。その現実的な雑多さのおかげで、個々の意味付けは意識されにくい。視聴者に論理的な煩わしさは感じさせず、無意識のレベルで感情情報を整理させるように絶妙に計算されている。

 

 そのような記号として用いられている物体の一つとして、結絃のカメラに着目してみたい。

 

 結絃は虫や動物の死骸を写真に撮り、それを家の中に貼って姉の硝子に見せることで、硝子が自殺を考えないようにしようと図っていた。また将也たちに会ってからは、将也たちがまた小学校時代のように硝子に危害を加えないか、ファインダー越しに監視するためにもカメラを用いるようになった。

 このように結絃のカメラは、硝子が自殺したり他人に危害を加えられたりしないように監視し、硝子を安全につなぎとめる役割を果たしている。  

 そしてこの役割を担うカメラは、結絃がいつでも硝子の身を案じているという、過剰ともいえる思いやりの象徴でもある。

 

 本作の驚異的なところは、カメラがその役割を徹底しているところだ。

 まず結絃が手話教室で将也と初対面し、彼を門前払いにしたシーンの後では、机に置かれたカメラはレンズ剥き出しのまま教室の戸の方を向いている。将也に対して「おまえを硝子には近づけさせないぞ」という威嚇の表れだ。

 

 将也の手話教室への2度目の訪問時には、将也と硝子が橋の上で語るのを、結絃は永束とともに教室のベランダからカメラのファインダー越しに見守る。将也が硝子に対して誠意をもって接するのか確認するためだ。

 ちなみにここでは、将也と硝子が手話で話しているために、遠くにいる結絃にまで会話の内容が伝わるようになっている。手話とファインダー越しという、本来効率が悪いはずのメディアが2つ組み合わさることで、遠くまで意思が伝わる状況になっている。聲の形らしい奇遇なコミュニケーションの成立がここでも見て取れる。

 その後も植野と硝子が観覧車に同乗する際には、硝子にカメラをビデオを回した状態で持たせて植野を監視させた。

 

 花火を観ている最中に硝子が家に帰り、飛び降り自殺を図った際には、結絃が将也にカメラを家に取りに行くことを依頼したおかげで、飛び降りようとする硝子を将也が見つけて助けることに成功する。将也が欄干に立つ硝子を見つけて慌てて駆け寄ろうとする際に、将也が置き直したカメラがアップで映される。「どやぁ。俺はちゃんと硝子を見守っていたぜ」と言わんばかりの堂々ぶりである。

 

 そんなカメラも最後には役割を終える。

 硝子の自殺未遂を乗り越えた結絃は、休んでいた学校に再び通い始める。彼女は勉強を教わりに将也の家を訪れ、写真コンクールの入選結果を見せる。そこに写っていたのは、以前に撮影した鳥の死骸があった場所の周りから、春になってクローバーが咲き誇ったところを撮った一枚である。

 

 死ではなく再生を写したカメラは、結絃の傍らにレンズカバーを閉じて置かれている。

 

 それまでは机などに置かれている場合でも、カメラは常にレンズを曝け出していた。いつでも硝子の周りを監視していなければならないからである。

 そのレンズにカバーが被せられたことは、結絃が硝子のことばかり案じて見守っていることをやめ、自分の人生を歩き始めたことの象徴だ。

 このシーンは空を飛ぶ鷺を撮影する一人称視点のカットで締め括られる。カメラは結絃自身の自由な表現のための道具になったのである。

 

 結絃は愛用のカメラさながら、硝子や将也たちをときに注意深く、ときに温かく見守っている。結絃の眼差しを借りて本作を観ると、また新たな景色が見えてくるかもしれない。