「心がぴょんぴょんする」という言葉で親しまれるこの作品。24分間に映るすべてがただひたすらかわいくて癒されます。
ただ、この作品のような萌え日常系アニメというものはどうしても「一時楽しくて癒されるけど、内容がなくて後に何も残らないよね」というような語り方をされてしまいます。私はこの風潮を全力で否定したい!と考えております。萌え日常系アニメは一見何気ない日常の描写に、あらゆる感覚や深い人間性を込めているのだ、ということを今回は『ご注文はうさぎですか?』(『ごちうさ』)を題材に語っていきます。
『ごちうさ』では喫茶店ラビットハウスを切り盛りするチノと、同店で住み込みで働くココアを中心に、個性豊かな登場人物たちが楽しい日常を繰り広げます。彼女らはコミカルなトラブルを巻き起こすこともありますが、基本的には一貫してのんびりした雰囲気の日々を過ごしています。
しかし、『ごちうさ』の世界で起こっている事柄や状況について客観的にひも解いてみると、奇妙奇天烈なことばかりです。まず彼女らはレンガ造りの建物が並ぶ洋風の街並みに暮らしていますが、この街には千夜が営む「甘兎庵」という和風の喫茶店が当然のように存在しますし、街路にはいたるところに野良ウサギがいたりします。一体どういう街なのか?
またチノの亡きおじいちゃんが、なぜかアンゴラウサギのティッピーに乗り移ってしゃべっています。ティッピーが発する言葉は、チノが腹話術で出しているものと他の登場人物たちには説明されていますが、彼女らには一体どのように聞こえているのかも謎です。流浪の小説家、青山ブルーマウンテンさんの神出鬼没ぶりも不可思議です。彼女はチノのおじいちゃんと親交があったようですが、どんな関わりだったのかはアニメではまだ描かれていません。
このような不可思議なことだらけである上に、それらのことの理由は一切説明されません。さも「こんなこと起こって当然でしょ?」と言わんばかりです。そしてそんな不可思議も、何気ない日常の風景の一部に見えてしまう。実はこのことこそが、『ごちうさ』に込められた信念の表れであると思います。
主要人物たちにもそれぞれ謎があります。なぜチノのような小さな子がカフェを切り盛りしているのか。ココアがなぜあんなに人懐っこいのか。ココアの人となりについては姉の存在が影響しているということはほのめかされていましたが、その姉のモカが登場したのは2期の中盤になってようやくでした。またリゼがなぜ拳銃を携帯するほど軍事に造詣があるのか。不思議だらけです。
もちろん他の漫画やアニメでも、お約束として不思議な出来事が説明なく起こることは多々あります。しかし『ごちうさ』では世界観全体や主要人物たちが不可思議な要素だらけでできており、しかもミステリーでも何でもない、日常を描く作品でそうなっているのです。これだけ作品の中心部分が謎だらけであるにもかかわらず、それが当然に見えてしまう。このように見せるのは大変な技術ですし、それだけのことをやるからにはそこに作品の真意があるのだと思います。
『ごちうさ』の不可思議だらけの日常に込められた信念とは、「人は理解し合わなくても仲良くできる。共生できる。」というものだと思います。このことは何よりココアとチノの関係に描かれています。天真爛漫なココアはしきりにチノをかわいがりますが、クールなチノはそれについていけなかったり、受け流したり。まさにでこぼこコンビです。2人は性格がまったく正反対で、いくら一緒にいても互いの感性は噛み合いません。
それでも2人は互いのことが大好きで、一緒にいる時間を何より楽しみます。相手と感じ方や考え方が違ったり、相手のことがわからなかったり、そんなことはどうでもいいのです。理解できない人とも仲良くすることはできるし、わからないことだらけの世界でも楽しく生きられる。そんな真理を『ごちうさ』は描いています。
日本ではしばしば「共存するためには理解することが大事だ。」というようなことが言われます。それは確かに一理あり、相手を理解することが共存することに役立つ場合はあります。しかし、共存には相手を本質までとことん理解する必要があるかといえば、そうではありません。他者の本質や本音を理解することは不可能な場合がほとんどですし、むしろそこに踏み込もうとすると摩擦を生じる場合も多いです。あまり理解することにこだわることは有益ではありません。
しかし世の中で「共存するために理解しよう」という言葉が多く言われるうちに、それが「共存するためには理解しなければならない。」という論理にすり替わってしまったように思います。この読み違えは、さまざまな他者との共存から遠ざかるという皮肉な結果を生みます。
なにせ「共存するためには理解する必要がある。」の対偶は「理解しなければ共存できない。」です。前者の命題が真ならば、後者もまた真です。そうなると、どう努力しても理解することのできない相手とは、共存することを諦めなければなりません。
近隣国の人々の考え方が理解できないから、彼らと関わらないようにする。障害者の言動は理解不能だから、社会から隔離する。女性が仕事において何を求めているかわからないから、職場で軽視する、というようにです。
理解できないから関わらないというのは、合理的な結論ではありませんし、実益を損なう結果を生みます。近隣国が嫌いでも、彼らが隣にいる状況は変えようがありません。日本の人口の1割以上は障害者であり、彼らを社会から締め出すのは不可能です。現状では女性が職場で活躍するようにならなければ、経済の活性化はあり得ません。
拒絶すれば摩擦が生じて損害を被るのだから、うまい関わり方を模索するしかありません。相手の考え方や行動原理などわからなくていい、というよりほとんどの場合はわからないので、どういう働きかけが効果的なのか試行錯誤すればいいのです。ちなみに行動心理学などの分野はこのような態度をとっています。
『ごちうさ』に戻ってみますと、ココアとチノはしばしばすれ違います。そのたびに2人とも他の友達に相談したりして、どうすれば仲良くできるのか、相手が喜んでくれるのかと模索します。その様子はかわいらしく描かれていますが、実際には面倒で労力のかかることですし、その上でどう受け止められるかは相手次第だという覚悟も必要です。とても力強い思いやりに裏付けられた行動なのです。そうやって覚悟を決めて、相手のために努力を惜しまず模索するからこそ、その先に楽しく温かい関係があるのです。
シャロというキャラクターも象徴的です。彼女は気品に満ちた所作をしますが、実は家が貧しく、そのことにコンプレックスを抱いています。家の中の様子などを見ても、かなりつつましい暮らしぶりでしょう。そんな彼女が引け目は感じつつも、裕福なリゼとも仲良くしているというのも、『ごちうさ』の包容力の表れです。
現実にはこのようにすることは難しいことで、劣等感を抱く人は卑屈になって自ら壁を作りがちです。しかし自ら拒絶するようなことをしなければ、意外といい関係を築くことができるのかもしれない。そのほうが楽なのかもしれない。そのような希望を感じさせてくれます。現実の人間関係はそう簡単ではないかもしれませんが、よりよい方法があるかもしれないという可能性に、『ごちうさ』は目を向けさせてくれます。
ここまでやたら堅苦しく語ってきましたが、原作のKoi先生やアニメスタッフの方々はこのようなことは百も承知だと思います。彼らが素晴らしいのは、このような信念をメルヘンな世界観とかわいらしいキャラクターたちによって包みこむことで、視聴者に楽しさとともになんとなく伝わるようにしていることです。それは非常に優れた技術であり、高度な智性を要することです。萌え日常系アニメにはこのようなしなやかな意志があるように思います。