台風がこんなに猛威をふるうとは思わなかった・・・
仕事してる人はたいへんだ。
おれはずっと家にいた。
祝日があったり、もうわけがわからない。
明日ふつうに出かけられるのかな。
朝ふと思ったことがあって、
活力のある人はみんな少年性をもってるんじゃないか。
というか活力イコール少年性じゃなかろうかと。
好きなものは何?
と問えばなんて答えよう。
本当の望みはたぶんかなえられない。
だから所詮は何かで代替するしかない。
だけど好きなことをしたい。
やらなきゃいけないことがあろうが、
それを好きなものに、少しでも結びつけなきゃ、
やっぱり保てないような気がする。
自分は何が好きなんだろう。
もし何でもできるとしたら何がしたい?
別に何も・・・なんて言ったら話が終わっちゃうな。
何もしたくない、というのは一時的な状態だと、
思いたい・・・どうなんだろうな。
何らかの活動に結び付く何かのなかで
一番好きなものは何か。
わからない。
ふと思いつくのは二つあって、
ひとつは女の子的なもの。
もうひとつは落ちこぼれの持つ反抗心。
それがどうつながるのか。
あ、あと白飯・・・
とにかく、ただ苦しいだけを耐えるのは
おれには無理かなぁと思う。
うーん、まだまだわからない。
本読んでて、
ヒントになりそうな吉本隆明さん関連の文を
引用して書き写してみた。
そしたらちょっと長くなってしまったけど、
自己満足でメモとして置いておく。
/////////////////////////////////////////
『最後の親鸞のノート』の中で、
吉本さんはこういうふうに言っています。
「ぼくは、自立だ、なんでも自分でやっちまえと
いうふうに考えているんです。
つまりもっとそれを抽象化してしまうと、
政治であれ文化であれ、生活そのものであれ、
少しでも他に依存するかぎり駄目なんじゃないかという
考えが徹底してあります。
だからどんなことでも自分の目の前につきあたったことがあるなら、
自分でやっちゃわなければ駄目だ。
それで自分でできないことは他人ができると思ってもいけないし、
またどんな問題についても、自分がなしうること、
あるいは考えができることが限度であって、
それしかこの世界にはないんだという概念である。
そうすると、それは徹底的な自力主義であって、
自力で到達できないものはこの世にはないと思わなくてはいけない。
もちろんそのことは観念の問題ですから、
もっと優れたことを考えることは実際的にはたくさんあるでしょうけど、
それはないとしなければならない。
だから自分にこの世を変える力もなにもないとすれば、
それは誰にもないんだと思わなければいけない。
かりにあっても、そう思わなければいけないと、
ぼくは考えて生きているんです」。
これは吉本さんの自立思想の核心だと思います。
じゃあそれが親鸞の他力思想とどう関わるのか。
「そうしますと、親鸞の思想と全く反対じゃないかとなっちゃいます。
つまり卑俗にいいますと、阿弥陀仏でも称名でもいいですが、
それに全部預ければいいんだ、それ以外のことは人間にはできないんだ。
親鸞の思想は、そういう概念だと思います。
それならば、何がゆえにそんなにまで徹底して本願力に
自分の精神を預けることができるのか。
そうなってくると条件があると思います。
その条件は、前にもいいましたように、人間というのは、
ここのところで壊れる、こういう問いのところ、
こういう問題のところでは壊れてしまうぞ、
その問いに対して人間的に答えようとすると、
嘘をつかないとできないはずだぞ、そういう個所をこじ開けて
全部をあずけるものをつくっていくと思うんです。
そこでは自力の崩壊点といいましょうか、
そういう問題点が出てくるように思うんです。
つまり自力の概念がつきあたる壁みたいなものがあって、
壁のところで問いを発すれば、自力とか自立が
壊れてしまうかもしれないというところがある。
それで壊れてしまったときに全部預けるかということなんです。
壊れる極限で全部預けたら駄目で、もし預けるならば、
はじめから預けたほうがいいんです。
ただ、そういう壁のところで出てくる矛盾が、
絶対に全部を預けちゃうんだというところにいく。
『歎異抄』の過程と一致する点といいましょうか。
共鳴する点みたいなものがあるように思うんです。
だけどみかけ上は反対のことを考えているんじゃないかと思うんです」。
こうしたところだと思うんですね、
この本が吉本さんの思想にとって最後の場所、
極北の場所としての意味を持つのは。
自立に向かってのぼりつめる過程はそれ自体としては<往相>に
すぎないということ、その先にさらに<還相>としての自立が
あるはずだということが一番重要な点だと思います。
<還相>としての自立は、一見すると自立の崩壊として現れるはずです。
「『吉本隆明と親鸞』 高橋順一」より
/////////////////////////////////////////////////////////////////
フーコーさんのいわれる階級闘争という場合の
闘争というものの目標を、
どこに置くべきかを現実的に設定した場合には、
その闘争は必ず世界からまったく孤立せざるをえないという形でしか
行なわれえないと思います。
これは日本でもそうだと思いますし、
またたぶん世界のどこでも、闘争を、
どこに向ってするのかといった場合に、
それは資本主義に向ってか、いや、
同時にそれは社会主義に向っても、闘争しなきゃならない。
そういうふうに問題がいつでも現実には伴ってきて、
それは必ず世界のなかで孤立した闘争にならざるをえない。
どこにも何にも頼ることができない、
そういうところに必ず追い込まれますし、
またそれを思想ないしは理念の問題として、
あるいは哲学の問題として、展開しようとしますと、
どうしてもやっぱり世界のどこからも孤立したものと
ならざるをえない。
つまり、そういうふうに追い込まれざるをえないのが、
ぼくは現状ではないかと思います。
たいへんその点では悲観しながらじぶんの考えを展開しています。
フーコーとの対談「世界認識の方法」より
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仕事してる人はたいへんだ。
おれはずっと家にいた。
祝日があったり、もうわけがわからない。
明日ふつうに出かけられるのかな。
朝ふと思ったことがあって、
活力のある人はみんな少年性をもってるんじゃないか。
というか活力イコール少年性じゃなかろうかと。
好きなものは何?
と問えばなんて答えよう。
本当の望みはたぶんかなえられない。
だから所詮は何かで代替するしかない。
だけど好きなことをしたい。
やらなきゃいけないことがあろうが、
それを好きなものに、少しでも結びつけなきゃ、
やっぱり保てないような気がする。
自分は何が好きなんだろう。
もし何でもできるとしたら何がしたい?
別に何も・・・なんて言ったら話が終わっちゃうな。
何もしたくない、というのは一時的な状態だと、
思いたい・・・どうなんだろうな。
何らかの活動に結び付く何かのなかで
一番好きなものは何か。
わからない。
ふと思いつくのは二つあって、
ひとつは女の子的なもの。
もうひとつは落ちこぼれの持つ反抗心。
それがどうつながるのか。
あ、あと白飯・・・
とにかく、ただ苦しいだけを耐えるのは
おれには無理かなぁと思う。
うーん、まだまだわからない。
本読んでて、
ヒントになりそうな吉本隆明さん関連の文を
引用して書き写してみた。
そしたらちょっと長くなってしまったけど、
自己満足でメモとして置いておく。
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『最後の親鸞のノート』の中で、
吉本さんはこういうふうに言っています。
「ぼくは、自立だ、なんでも自分でやっちまえと
いうふうに考えているんです。
つまりもっとそれを抽象化してしまうと、
政治であれ文化であれ、生活そのものであれ、
少しでも他に依存するかぎり駄目なんじゃないかという
考えが徹底してあります。
だからどんなことでも自分の目の前につきあたったことがあるなら、
自分でやっちゃわなければ駄目だ。
それで自分でできないことは他人ができると思ってもいけないし、
またどんな問題についても、自分がなしうること、
あるいは考えができることが限度であって、
それしかこの世界にはないんだという概念である。
そうすると、それは徹底的な自力主義であって、
自力で到達できないものはこの世にはないと思わなくてはいけない。
もちろんそのことは観念の問題ですから、
もっと優れたことを考えることは実際的にはたくさんあるでしょうけど、
それはないとしなければならない。
だから自分にこの世を変える力もなにもないとすれば、
それは誰にもないんだと思わなければいけない。
かりにあっても、そう思わなければいけないと、
ぼくは考えて生きているんです」。
これは吉本さんの自立思想の核心だと思います。
じゃあそれが親鸞の他力思想とどう関わるのか。
「そうしますと、親鸞の思想と全く反対じゃないかとなっちゃいます。
つまり卑俗にいいますと、阿弥陀仏でも称名でもいいですが、
それに全部預ければいいんだ、それ以外のことは人間にはできないんだ。
親鸞の思想は、そういう概念だと思います。
それならば、何がゆえにそんなにまで徹底して本願力に
自分の精神を預けることができるのか。
そうなってくると条件があると思います。
その条件は、前にもいいましたように、人間というのは、
ここのところで壊れる、こういう問いのところ、
こういう問題のところでは壊れてしまうぞ、
その問いに対して人間的に答えようとすると、
嘘をつかないとできないはずだぞ、そういう個所をこじ開けて
全部をあずけるものをつくっていくと思うんです。
そこでは自力の崩壊点といいましょうか、
そういう問題点が出てくるように思うんです。
つまり自力の概念がつきあたる壁みたいなものがあって、
壁のところで問いを発すれば、自力とか自立が
壊れてしまうかもしれないというところがある。
それで壊れてしまったときに全部預けるかということなんです。
壊れる極限で全部預けたら駄目で、もし預けるならば、
はじめから預けたほうがいいんです。
ただ、そういう壁のところで出てくる矛盾が、
絶対に全部を預けちゃうんだというところにいく。
『歎異抄』の過程と一致する点といいましょうか。
共鳴する点みたいなものがあるように思うんです。
だけどみかけ上は反対のことを考えているんじゃないかと思うんです」。
こうしたところだと思うんですね、
この本が吉本さんの思想にとって最後の場所、
極北の場所としての意味を持つのは。
自立に向かってのぼりつめる過程はそれ自体としては<往相>に
すぎないということ、その先にさらに<還相>としての自立が
あるはずだということが一番重要な点だと思います。
<還相>としての自立は、一見すると自立の崩壊として現れるはずです。
「『吉本隆明と親鸞』 高橋順一」より
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フーコーさんのいわれる階級闘争という場合の
闘争というものの目標を、
どこに置くべきかを現実的に設定した場合には、
その闘争は必ず世界からまったく孤立せざるをえないという形でしか
行なわれえないと思います。
これは日本でもそうだと思いますし、
またたぶん世界のどこでも、闘争を、
どこに向ってするのかといった場合に、
それは資本主義に向ってか、いや、
同時にそれは社会主義に向っても、闘争しなきゃならない。
そういうふうに問題がいつでも現実には伴ってきて、
それは必ず世界のなかで孤立した闘争にならざるをえない。
どこにも何にも頼ることができない、
そういうところに必ず追い込まれますし、
またそれを思想ないしは理念の問題として、
あるいは哲学の問題として、展開しようとしますと、
どうしてもやっぱり世界のどこからも孤立したものと
ならざるをえない。
つまり、そういうふうに追い込まれざるをえないのが、
ぼくは現状ではないかと思います。
たいへんその点では悲観しながらじぶんの考えを展開しています。
フーコーとの対談「世界認識の方法」より
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