良さそうなことを言おうとしたり、

やろうとしてしまったときは、

警戒しないといけないんだよなぁ。

もしかしたら危ないのかななんて思ってる。

よくわからん。

ちょっと親鸞の名前は、

もう一日くらい出しとこう。笑

親鸞はたぶん、

強迫観念を嫌ってるだろう。

親鸞の言ってることは、

ことごとく強迫観念を無化させて、

楽にしようとしていると思う。

そのかわり、反感を買いやすいのかもしれない。

そういう自分だって、

ほんとうはどっかに反感持っちゃってるんだよなぁ。

それをなくせたら悟りだね。

そんな日は来ないと考えたほうがいいんだけど。

親鸞の師匠の法然の頃は、

知を捨てよということはまだ方便だったふしがある、

と吉本さんは言う。

そして親鸞はそれを徹底化し、

宗教が解体しても追及すべき、

本質的な課題とした、と。

浄土も、無いと言った。

阿弥陀なんて実体としてどこにいるのかと。

ただ一回、心から念仏を唱えられたらそれで往生だと言った。

修行なんかしたら浄土へ行けませんよと言った。

方便じゃなく徹底する、っていうのがきっと大事なんだろうな。

ちょっとちらっと本を読み返してみたら、

まだまだ誤解があるかもと思った。

まだ理解できないかもしれない。

それでも読み返してみたい。

最後に一部引用してみる。


念仏をとなえれば、浄土へゆけるという考え方は、

親鸞にとって最終的には否定さるべきものであった。

(中略)

<称名念仏>も<浄土>の概念も、いわば本願他力の

絶対観念が支配する世界でだけ存在しうるとしなければ、

無意味なはずである。そうでなければ、<易行道>は文字通り

<安直な方便>になってしまうからだ。

絶対他力という裏返された困難に耐ええないものに

<称名念仏>も<浄土>も無縁である。

法然や親鸞の尊重したいわゆる「愚者」は、

けっして絶対他力の思想の困難さに耐えている存在ではないが、

もともと「御計(おんはからひ)」をもたぬがゆえに、

即時的な<絶対他力>の実践者であるほかない存在である。