阪急沿線つれづれかちじ

   阪急沿線つれづれかちじ

 歴史に触れ 寺社を巡り、、、
  とにかくひたすら阪急沿線を楽しむ
 小さな歩き旅        ••••••••の備忘録記

Amebaでブログを始めよう!

慶應義塾を卒業した小林一三さんは、小説家へのステップとして新聞社を志望したけれど叶いませんでした。

そこで、先輩のツテを頼って三井銀行に就職したのが明治25年

大阪麦酒会社がアサヒビールを販売し、オリンピックが提唱された年の事でした。

 

 

裕福な商家の生まれでお金には困っていなくて、なおかつ作家の夢も諦めきれなかった小林一三さんは、銀行での仕事にやり甲斐を見出せなかったのでしょう。

本来の初出勤から3ヶ月遅れて出勤し、その後も茶屋遊びにうつつを抜かすなどダメ社員の日々を送っていました。

 

 

大阪支店に勤務していた時に支店長だった岩下清周(きよちか)さんから証券会社設立の話を持ちかけられたのは、一度決まった栄転が撤回されて、本人曰く「紙屑籠の中に長く長くくすぶって」暮らすようになってから7年が経った頃

 

小林一三さんは証券会社設立に加わるために、14年勤務した三井銀行をあっさりと退社して、大阪へ向かいました。

 

 

 

ところが、同じタイミングで日露戦争後の反動で株価大暴落

世間は恐慌に突入し、証券会社設立どころではなくなってしまったのです。

 

 

困り果てた小林一三さんに岩下清周さんが持ってきたのが、阪鶴鉄道の監査役でした。

 

この時すでに阪鶴鉄道は国有化が決まっていて、小林一三さんの仕事は解散に向けての残務処理

 

 

その中に箕面有馬電気軌道計画が含まれてました。

 

 

もしバブル崩壊後の恐慌がなければ、小林一三さんがいなくても箕面有馬電気軌道は実現していたでしょう。

阪鶴鉄道は業績が芳しくなかったので打開策が必要だったし、その阪鶴鉄道すら失う関係者にとって、箕面有馬電気軌道は活路だったはず

 

けれど、世間は恐慌の最中、

都市と都市を結ぶ路線ならともかく、農村地帯と未開拓地がほとんどの土地に誰が電車を走らせようと言うのか。

 

阪鶴鉄道の買収費用に加えて投資家からも資金を集め、出願許可も受けていたけれど、計画は早くも頓挫しかけていました。

 

(箕面有馬電気軌道の開通当時から阪急に変更後も走っていた1型)

 

けれど小林一三さんは、箕面有馬電気軌道の路線予定地を歩き、新路線勝算を見出したのです。

 

会社設立の追加発起人になると、設立委員会を説得し、全責任を負い金銭的な迷惑はかけない。株式引受人になるとまで宣言しました。

 

明治40年

小林一三さんは34歳でした。

 

 

大阪北区梅田を中心に、大阪、京都、神戸、宝塚を結ぶ阪急電鉄

 

 

阪急マルーンと呼ばれる小豆色の車体は、府民の憧れと言われているけれど、

憧れ以上に愛されている言っても過言ではない!

 

少しでもくすんでいれば、ここまで愛される事もなかったと思うけど、

幾重にも重ねて塗る事でこの美しさに辿り着き、

週に1回以上の洗浄と、

車検の度に行われる再塗装。

昔の車両も今の車両も同じように鮮やかなマルーンとなっているのです。

 

 

 

 

そんな阪急電鉄ですが、始まりは箕面有馬電気軌道。

大阪と箕面、宝塚を結ぶ小さな路線でした。

 

創業者は小林一三さん

 

 

この箕面有馬電気軌道、

小林一三さんが銀行勤めをしていた頃に、ある鉄道会社の計画から始まりました。

 

その鉄道会社こそ阪鶴(はんかく)鉄道

後に国有化されて、今のJR福知山線の原型になった会社です。

 

(丹波綾部停留場 by文化歴史資料館)

 

 

時は阪鶴鉄道開業前の明治20年に遡ります。

 

尼崎町初代町長の伊達尊親さん、白雪で有名な小西酒造の小西荘二郎さん達13人が発起人となって川辺馬車鉄道を設立

その4年後に、尼崎と伊丹の間を関西最初の馬車鉄道が開通しました。

 

ところがこの川辺馬車鉄道、輸送力が小さくて、開業当時から馬車鉄道の形態では限界を迎えてました。

そこで、蒸気動力を用いた軽便鉄道に切り替える事になりました。

 

そんな訳で明治25年、川辺馬車鉄道は解散して、別会社として摂津鉄道が設立されました。

路線は、川辺馬車鉄道時代に計画が立てられていた小戸(川西市)まで延長

尼ヶ崎駅、長洲駅、伊丹駅、池田駅の4駅で開業しました。

 

 

川辺馬車鉄道時代の計画は、摂津鉄道だけではありませんでした。

神崎(尼崎)と舞鶴を結ぶ摂丹鉄道も出願してたのです。

 

当時は鉄道建設ブームで、国の重要拠点であった舞鶴を結ぶルートはいろんな鉄道会社が出願してました。

許可が下りた会社はなくて、川辺馬車鉄道も却下されちゃいましたが、この計画を引き継いだのが阪鶴鉄道なんです。

 

けれど、舞鶴への鉄道建設を競っていた京都鉄道に許可が下りたため、阪鶴鉄道には許可が下りませんでした。

許可が下りたのは神崎ー福知山の間だけ

社名に舞鶴の「鶴」を入れたのに、舞鶴に行けない苦痛スタート

 

明治30年、阪鶴鉄道は摂津鉄道と合併

明治32年には三田、篠山(篠山口)、柏原、福知山南口(後に廃止)と順調に路線を伸ばしていきますが、

その歴史は決して順風満帆とは言えないもので、

京都鉄道を組み込んで計画を練り直したのに、鉄道が舞鶴まで路線を伸ばさなかったり、

苦肉の策で、舟運を計画したり、人力車で輸送したり、

 

 

大阪湾と日本海を結ぶ大型路線まで、常にあと一歩の日々

 

 

そんな最中の明治40年、鉄道国有法により、尼崎・福知山間の営業を国に譲渡する事になったのです。

 

大阪と池田を結ぶ路線計画中の出来事でした。

 

 

原田井の洗い場を南に下ると九名井の側に集められた五輪塔郡があります。

 

 

多くは室町時代から江戸時代の一石五輪塔で、石仏も年代を感じるものが多々あります。

 

 

五輪塔はお墓の一種で、死者を成仏させて極楽浄土へと誘うために建てられます。

こちらの五輪塔郡は一つの石から作られていますが、本来は5つの石材から構成されていて、それぞれ名称と意味があります。

 

1番上にある宝珠型の石材は空輪。

災いを取り除いて水を浄めると言う意味が込められています。

 

上から2番目にある半月形の石材は風輪。

風は呼吸を意味しています。

 

上から3番目にある三角の石材は火輪。

体温を表しています。

 

上から4番目が円形の水輪。

血液や水など流れるものを表しています。

 

1番下の方形が土輪。

土は大地を意味しています。

 

 

古くは戦や天災•疫病などで多くの命が失われ、引き取り手のなかった遺体の供養のために建てられるようになったと言われています。

この村でも、室町時代から江戸時代にかけて、そう言った事が度々あったのでしょうか。

 

今でも綺麗な水が供えられていて、地元の人が毎日手入れをしているのが伺えます。

 

 

曽根駅の下を東西に走る道を西へ約500m

原田城跡がある十字路を左に曲がると、住宅地の中に現れる用水路。

 

 

一見どこにでもあるような用水路に見えますが、付近の9つの村が利用していた事から九名井(クメイ)と呼ばれていました。

 

元は「九米井」

9つの村のお米を育てるための井、と言う意味だったのかな?

 

「井」と言うと、井戸の意味だと捉える人がほとんどかと思いますが、井には「地を掘り下げて地下水を蓄えて汲み取る仕掛け(井戸など)」の他に「泉や流水から水を汲み取る所(はしり井など)」の意味があります。

つまりこちらの用水路も「井」なのです。

 

話は少し外れますが、九名井を上がって行くと伊丹空港のすぐ側に走井と言う地名があります。

こちらは村の神社にかつてはしり井があり、それがそのまま地名になっています。

 

 

話は戻りまして、

先程、9つの村が利用していたから九名井と書きましたが、地元の話によると、9つの村がお金を出し合って作ったから九名井なんだそうです。

でも、原田村は1番お金を出した(おそらくほとんど)ので「九名井」が納得いかず、独自に「原田井」と呼んでいたそうです。

 

 

傘が寝ちゃっている石場が当時の洗い場です。

 

子供の頃にこの原田井の洗い場を使っていたと言う方にお会いする事が出来ました。

当時この辺り一帯は田んぼで、原田井から水を引いて作物を育てていたそうです。

収穫した作物をよくここで洗っていたけれど、宅地開発が進むにつれて田んぼがなくなり、水も必要がなくなって止めてしまったと少し寂しそうでした。

 

今は洗い場が柵で阻まれ、水はわずかに溜まっている程度。

当時の面影は洗い場の石のみです。

 

 

約550年前には存在してたようですが、いつ作られたかまでは分かっていません。

 

 

洗い場の近くにはお地蔵さまが鎮座しています。

 

 

扉には磨りガラスがはまっていて、残念ながらどんなお姿なのか伺う事は出来ませんでした。

 

お地蔵さまはいろんな形で生活に密着していました。

原田井の洗い場の側にあるので、村人が豊作を祈る場だったのかな?と勝手に想像していたのですが、卍があるところを見るとどうも違うような、、、

 

原田村と田能村で九名井をめぐる争いがあったと書かれているので、もしかしたらその時から鎮座しているのかも知れません。