ガネーシャJr.の印西暮らし

ガネーシャJr.の印西暮らし

2015年迄印西市ではんこ屋を営んでいたガネーシャJr.と申します。角膜と硝子体の目の病気ではんこ屋を閉店しました。
里山と近郊都市の両立する印西市が大好きで、市内を散歩しながら見た事や行政に感じる事を個人的見解で書いています。どうぞ宜しくお願い致します。

こんにちは、ガネーシャJr.です。

印西市議会令和2年第2回定例会(6月議会)が6月5日から6月26日まで開催されます。
今年は4月30日に臨時議会が開催され、3月議会から立て続きに議会が開かれていました。
でも議員は自粛で活動を制限されていたので、時間は充分あったと期待しています。
ほんの一部の議員だけが、SNSで多くの市民の質問に答えていました。頑張った議員を次回の市議会議員選挙まで忘れないで下さい。

6月議会は個人質問のみで、5月22日に質問通告が締切、28日が誓願陳情受付締切、29日に議員運営委員会が開催されて通告質問内容が公表されると思います。
6月議会質問通告締切22日は、まだ緊急事態宣言の解除が決まる前でした。その時点では、このままだとどうなるか不安に感じていた事です。今は解除後の課題が重要で、少し視点が異なると思います。
やはり一番の問題は新型コロナウィルス対策や関連課題で、問題は山積みです。状況が変わっていますが、鋭い質問を期待します。


他にも印西市の令和3年から10年間の将来構想の基本となる、総合計画基本構想(案)が公表されました。以前の議会でも質問する議員が多く、白熱した討論を期待します。
総合計画基本構想(案)へのパブリックコメント(意見公募)も募集していますが、募集期間が5月1日~31日となっています。しかしホームページでの公表が5月14日でした。
資料が市役所にも置いてありますが、自粛で見る機会も少ないと思います。実質16日で31日の募集期間はちょっと変?。担当者だったら、意見が少ない方が歓迎でしょう。
ガネーシャJr.が感じたのは、財政の見通しで「今後も厳しい財政状況が続く見通し」だそうです。印西市って、いつからそんな貧しい街になってしまったの?。


7月19日には印西市長選挙が行われます。現在の板倉市長は3期目を目指し、立候補表明をして積極的にチラシやSNSを出しています。
コロナウィルス対策の重要な時期に、市長としての活動より候補者としての活動が目立ったと思うんてすが・・・。千葉市長の様なパフォーマンスは要りませんが、白井市長位はホームページに出て発言して欲しかった、です。
他に立候補予定者は出ていません。情報も入らず、無投票にならないか心配です。


5月15日に「いんざい議会だより」192号が出ました。
今回は令和元年度の印西市議会議員の出欠簿が掲載されています。
これも次回の市議会議員選挙の参考にしましょう。病弱な議員は困りますね。


6月議会も密を避ける為、傍聴自粛要請が出ると思います。やはり家でネット中継を見たいと思います。傍聴自粛要請が出ている期間は、ネット録画をより早く公開すべきです。

市長選挙直前の議会に期待している、ガネーシャJr.でした。


こんにちは、ガネーシャJr.です。

自粛生活で一人で思う事が増えました。
個人的に思った事を列記しますので、今回はいつもと異なると思いますので、合わない人はスルーして下さい。写真も関係ない画像です。


新型コロナウィルスの感染者数大きく減り、緊急事態宣言も縮小されました。世界的にも減少傾向に向かっています。
しかし世界中の人々が活動自粛を求められ、それに伴う多くの弊害が起きています。
経済の影響は多大で、回復するには困難を伴うと思います。経済の崩壊は格差社会を増長する原因となり得ます。
格差社会は富者が貧者を抑圧する体制です。強者が弱者を踏み台にする事です。
また昔の体制の様に、時代は繰り返すのです。
商売が再開出来ず、売上が減ってお店を辞める人も大勢いると思います。
ガネーシャJr.もお店を辞めた時を思い出しました。手術が即必要で回復に長期間かかる、手術が成功しても以前の様に仕事が出来ないかも。結局お店を閉店する事にしました。
しかし辞めるのも大変で、看板撤去や廃棄物引取等で50万円以上かかりました。お客様への告知や業者への手配で、売上無しで3ヶ月も家賃を払い続けました。
今多くの個人事業者はあの思いを経験していると思うと、切なくなってしまいます。

今一番心配している事は、経済崩壊により福祉崩壊へ影響する事です。高齢者や障害者等の福祉が疎かにならないか。一番の弱者は、今福祉を必要としている人達だと思います。


また変な愛国主義が横行して、他国や外国人を排他する風潮も起きています。
今思い出すのは「ぬやまひろし 愛国主義の書」です。昔20歳の時に、社会活動家で詩人ぬやま先生と2人だけで1時間余り話す機会がありました。当時は愛国主義と言うだけで反発しました。なぜ社会活動家が愛国主義を唱えるのか、結局判りませんでした。現在のこの時期に思い返すと、初めて少し納得出来ました。
愛国主義を唱えるには己を鍛えて磨きあげて、初めて祖国を憂えます・・・。


まだ新型コロナウィルスは撲滅した訳では無く、一時的に停滞しているだけです。
まだ対策ワクチンも未完成ですし、感染力が減った訳でもありません。
当分の間は新型コロナウィルスと共存しなくてはなりません。

今まで他人からの感染を恐れ、外を歩いている時等は人を避けました。しかしどうしても狭い場所やお店の中等では、避ける事が困難な場合がありました。またマスクをせずにランキングしている人を嫌っていました。

しかし緊急事態宣言が解除されると、ますます人との密は避け難くなります。
まずは他人と密になっても、移されない体制を整えましょう。医療機関で働いている人は感染しやすいですが、全ての関係者に感染していません。しっかりと対策を講じています。
一般人も同じ気持ちで対策を講じましょう。
対策の薄い人だけでなく周りの人全てが感染者と思い、介護する気持ちで対策しましょう。
もうマスクをしない人は恨みません。あの人らは感染者と思い、こちらも対策します。
最初嫌だったマスクも慣れて来ました。手洗いも慣習になりました。使い捨て手袋持参で、手刷りやボタンの時は手袋します。

もうこれからは、新型コロナウィルスを避けては生活出来ません。新型コロナウィルスと共存する気持ちを持ちましょう。


たまには息抜きも必要です。美味しい物を食べます。ケバブの持ち帰りしました。
これからは食中毒にも気を付けましょう。

ガネーシャJr.の独り言でした。

こんにちは、ガネーシャJr.です。

印旛飛行場の続編、飛行場の完成からです。
1942年6月「通信省印旛地方航空機乗員養成所」は完成しました。
(当時の印旛飛行場と練習機です)
飛行場は山林を伐採、滑走路は草むらを慣らしただけでした。総工費192万円でした。完成当時の飛行場に陸軍95式1型・95式2型・99式の3機が訓練練習機として使用されました。
卒業生は民間航空を望んだが、殆ど陸軍航空隊へ配属されました。卒業生で地元草深出身の長浜少尉は1944年12月にレイテ島で、特攻隊として体当り攻撃で戦死しました。


1943年に太平洋戦争の戦局が厳しくなり、帝都防衛の為に滑走路の拡張工事が始まりました。工事には勤労奉仕者の他に多くの徴用朝鮮人労務者が動員され、2kmもある戦闘機用滑走路3面作られました。
(西の原公園にある飛行場跡地地図)

飛行場跡地を通る2km以上あるこの直線道路は、実際は滑走路予定地でしたが、滑走路の雰囲気を感じさせます。

1944年11月に「陸軍飛行第23戦隊」が進出、陸軍印旛飛行場となりました。養成所建物は戦隊の本部としても使用されました。

西の原公園に建っている不思議なモニュメントは、多分飛行場の管制塔を模したかと思います。場所もこの近くと推測します。

空襲に備え誘導路と掩体壕・退避壕を拡充しました。掩体壕は36基が確認されてます。
東の原に1基の掩体壕が保存されています。
東の原公園砂場に実物大の掩体壕と飛行機を模したモニュメントがあります。

「陸軍飛行第23戦隊」は1式隼・2式鍾馗の20機を保有していましたが、1944年11月と翌年1月に硫黄島に12機を派遣、また本土防衛の迎撃戦に従事しました。

1945年2月16と17日に米軍機が数百機来襲、印旛沼上空の空中戦で藤田少佐(戦隊長)ら5名が戦死しました。藤田少佐は13機の撃墜記録を持つ勇者でした。少佐未亡人は全ての片付けを終えた後、夫を追って自決したそうです。
5月26日には船穂村武西にB29が墜落、米兵2遺体が安養寺に1遺体が戸神墓地に埋葬され、米兵8人が捕虜となりました。
7月4日は本部に空襲があり、P51の防空壕への銃撃で7名が戦死しました。
8月に離陸失敗で墜落炎上事故も起きました。
終戦直前の8月13日も米軍襲来がありました。

2003年飛行場跡地の西の原公園に「平和の碑」が建てられ、当時の記憶を伝えています。

終戦後は残った飛行機を飛行場に並べて、上空から大量の爆弾を投下したそうです。残存した施設も、養成所(本部)以外と周辺の掩体壕以外は破壊されたと思います。
残った掩体壕も戦後の開拓やニュータウン開発事業で消えていきました。


1949年残存した養成所や寄宿舎は「印旛少年院」として使用されます。

飛行機跡地の軍用地は戦後の食料難で1945年11月に緊急開拓事業が行われ、大規模な農地の開墾が実施されました。
開拓地に入植した人は、現地除隊の軍人や徴用朝鮮人労働者と海外引揚げ者・復員軍人・戦災者・農家の次男三男等でした。
これらの人が勝手に開墾を行い、戦時中強制買収された地元農民との対立も起きました。
開墾は困難で、農業経験に乏しく離農した開拓者も大勢いたそうです。そして土地が不毛に近く肥料不足もあり、十分な収穫が出来ずに絶えず餓えの脅威にさらされていました。
1948年船穂開拓農業共同組合が設立、翌年頃からやっと収穫が伸び始めました。
そして電灯がついたのは1953年3月で、全戸点灯は1960年の事でした。
(市内で見つけた廃屋らしき物置小屋?)


1967年千葉ニュータウン開発で、土地を売り払う人も増えました。1969年12月千葉県北総開発局(千葉県企業庁)との契約が決まりました。
(ニュータウン造成前の飛行場跡地?)

新住民で開催した1984年最初のニュータウン夏祭りで、地元商店に寄付金要請に行った時「ニュータウンには金は出さない、出ていけ」と言われ水をかけられた役員がいました。

昔から印西に住む旧住民から聞いた話です。土地売却で急に大金を持つ人が増え、地元にヤクザが来て何回も賭場が開かれたそうです。
困窮生活から大金持ち、そして借金で夜逃げする開拓農民が何人もいたそうです。
一部の旧住民がニュータウンを嫌いになったのは、こんな事がありニュータウン開発自体と新住民を嫌ったそうです。
(ニュータウン造成中の1976年と2019年頃の、飛行場跡地の航空写真の比較)


印西市は「非核平和都市」を宣言した街です。市役所ロビーに平和の鐘が飾っています。

印西にはこんな歴史がありました。
千葉県の片田舎ですが空襲を受けた街を、新住民にも知って欲しいと思います。
印西歴史を勉強中のガネーシャJr.でした。


こんにちは、ガネーシャJr.です。

印旛少年院の前身、印旛飛行場を調べました。
成田空港とは異なる飛行場がありました。
今回も憶測と勝手な解釈をお許し下さい。


まずは印旛飛行場のあった船穂村草深の地形と歴史から説明します。

草深の場所は、今の千葉ニュータウン原山・高花から牧の原地区の牧の原・西の原・原・東の原を含む東西南北約5kmにも及ぶ一帯でした。
(青に囲まれた部分が草深と推定します)

草深のある北総台地には谷に切れ込んだ湧水のある谷津がいくつも存在します。昔から谷津を中心に農業が営まれました。
谷津以外は水の供給が無く、農地には敵さない土地でした。
(残存する草深にある森の様子です)

ガネーシャJr.が市民アカデミー卒論に発表した印西市内谷津の推測図です。
丸で囲まれた地域が草深ですが、水利があるのは南の師戸川と北の亀成川水系だけです。
(師戸川の谷津は稲作が行われています)

水利の無い北総台地は牧(馬の放飼い)に使われました。東の泉地区は印西牧(小金牧の一部)、西は佐倉牧に使われて、その間の草深野だけが自然のまま残されていました。
草深野は竹を採る林業が行われるだけの、人の住まない未開の地だったそうです。
印西にはこんな話もあります。草深っ原のキツネは、ここを通る人を化かしたそうです。


江戸時代からは用水路を整備した新田開発が行われました。草深野も新田開発が行われました。江戸時代の役人が草深を惣深と台帳に書いたらしく、惣深新田と言われました。
草深の森にある大日塚は、江戸時代に新田開発を祈願して建てられました。

当時、草深の一部には地元民の隠田があったり、牧と接触したりして、新田開発農民と近隣村の住民との対立が何度も起きました。
いつの時代も旧住民と新住民の対立は、避けられないのでしょうか。

惣深新田の畑では麦・ひえ・栗等の栽培でした。草深野の実際の耕作地は少なく、8割以上が原野でした。新田開発も収穫も非常に困難で、農民の生活も非常に困難でした。
江戸時代の新田開発の推移は、とても長いので今回は略させて頂きます。


1935年(昭和10年)木下と船橋を繋ぐバスが開通しても、草深だけは悪路だったそうです。
(今も造成地を離れると、こんな道悪です)

明治時代以降も草深野の活用は課題でした。
周囲の町村長の相談で、草深に飛行場を造る活用案を採用しました。
1938年から飛行場建設工事が始まり、勤労奉仕の周辺住民や学生らも動員されました。

天王前(八坂大社)から一直線の広い道が作られ、工事資材運搬に使用されました。
初めて見た時は交通量も少ないのに一際目立つ幅広い道で、不思議に感じた道でした。


1941年「通信省印旛地方航空機乗員養成所」が開所、1942年6月に草や山林を伐採しただけの印旛飛行場が完成しました。

飛行場の西側に養成所や寄宿舎が設置され、中庭には「スダ爺」が生えていました。

飛行場の完成からは次回に続きます。
図書館が休館で詳しい古地図が見れず、推測になったのが残念です。
外出せず歴史研究中のガネーシャJr.でした。


こんにちは、ガネーシャJr.です。

道端で見かける花も夏になっています。

ヒルガオ(昼顔)の花が咲き出しました。

クローバー(白詰草)は満開、
4葉って踏まれると増えるそう?
赤詰草って本当はムラサキツメクサだって。

カタバミの花たち、色がたくさん。

ハルジオンヒメジョオンの違い未だ不明。

ジシハリはまだ可愛い花です。

ブタナは名前も悪いです。
しかしこれだけ咲くと見事です。

千葉ニュータウンの道端に咲く花は
殆どが外来種の雑草です。
やはり成田空港に近くて、
印西の上空で車輪を出すから?

ナガミヒナゲシはもう終わりみたい。

ついに来ました、外来美人!
オオキンケイギクの季節です。
特定外来種でもキレイなんです。

今年も雑草に見とれています。
自然の花も、けっこう可愛いんです。
道端で楽しく、ガネーシャJr.でした。

こんにちは、ガネーシャJr.です。

ガラケー・デジカメ写真の最後です。
10年以内のほんの少し前の景色です。
今思うとこんな光景が見られました。
そしてこんなに変わってしまいました。

ここは万葉公園(交流の杜)の入口、
2012年と2013年頃だと思います。
毎年ここに市民団体が飾っていました。
「木下巨大おひなさま」のイベントです。
ビオラの花で飾られました。
どうして無くなったのか、残念です。


結縁寺の門前にある池です。
前は半分以上、蓮で覆われていました。
カエルがたくさんいて、ヘビが狙います。
蓮の葉の水上をヘビが歩いていました。
今は蓮池は境内だけになりました。
蓮に覆われた池では無くなりましたが、
キレイな水の池になりました。

原山の神明神社の昔の写真、
昔は林に囲まれていたが、今は丸裸。
後ろは戸建住宅が見えるんです。

泉新田大木戸野間掘遺跡、
印西牧(馬牧場)の一部が残されていました。
現在、隣はソーラーパネルが建ちました。
その先は巨大物流センターなんです。


草深(原)には養鶏場がありました。
鳴き声でもわかるが、匂いでも・・。


最後によく分からない写真、
野ウサギの写真なんです。
今はまだキジは時々見かけますが、
野ウサギは殆ど見かけません。
イノシンはまだ居るみたいですが、
タヌキやハクビシンは見かけます。
しかし自然は減って行くだけです。


でも今思うと、何でこんなに
つまらない写真しか撮ってなかったの?
もっと景色を撮るべきでした。
懐かしのガネーシャJr.でした。


こんにちは、ガネーシャJr.です。

あまりの好天気に誘われて
森の中へ入ってみました。

ここの森は入り口見つからず。

ここは荒れた竹林、キケン危険!
竹の子、大きすぎ?

ここなら道は通れそう。
倒木を乗り越えると、森の散歩道。

マスクを外して、森の空気を吸入。

考えたら、今が森林浴最高の季節でした。

見慣れぬ森の植物たち。

知ってる花、キンラン発見!

この紫の花はエンゴグサ?、
いっぱい咲いていました❗

こんな時世だけど、森は生きていました。
初夏の森、自然は元気でした。

来て良かった、ガネーシャJr.でした。


こんにちは、ガネーシャJr.です。
自粛生活で印西市の歴史を見直しています。
一番近い歴史を思い出しながら、調べました。
ガネーシャJr.が個人的に考えたので、史実と違っていたらご免なさい。

草深地区は江戸時代から開拓されて来ました。しかし平坦な未開地が多く、1941年印旛地方航空機乗員養成所飛行場が造られたました。
1944年に陸軍飛行23戦隊が配置、終戦まで帝都防空に使用されました。
飛行場の場所は現在のこの場所と思われます。
(木下の歴史資料館で貰った資料から推定)
(滑走路が異なる資料もありました)


草深に1949年6月に男子特別少年院が設置、翌年5月から最初の収容が行われました。

少年院の設置は戦災孤児等による、少年犯罪の増加でした。残っていた印旛飛行場の管理施設をそのまま使用しました。

印旛少年院は「ヤキの印旛か八街か」と年少小唄で最初に唄われる、恐い少年院でした。
印旛少年院が有名になったのは、1954年8月26日の暴動事件でした。職員・警察官が負傷して、76名が脱走して強盗等がありました。
翌日には全員収容されましたが、その後も逃走事件があり印西町議会で「立ち退き決」が可決される等住民達は不安に駆られました。
暴動の首謀者は6月に八街少年院で騒ぎを起こし印旛少年院に移送、事件後に久里浜少年院へ移送中にも暴動を起こしたそうです。
事件の背景には教官のリンチがあり、院児達の不満があったそうです。
首謀者の少年はどこでも即ボスになる凄い人物で、彼のお蔭で全国の少年院や刑務所の管理を見直す様になったみたいです。
(更正して戸川万吉になった事を祈ってます)

当時の印旛少年院周辺の草深の様子です。
終戦後の印旛飛行場跡地には復員軍人・海外引揚げ者・戦災者等の開拓者が勝手に開墾をして住み始め、戦時中強制買収された地元農民との対立も起きたそうです。
(戦後の混乱で、政府や県が整う前でした)
多分この様な家に逃げこんだのでしょう。
飛行場跡地は荒れた土地で、肥料不足等で満足に収穫出来ませんでした。農業経験無く入植後に離農する開拓者は多かったそうです。
それでも1969年にNHK紹介の「印西ゴボウ」は、全国的に有名になったそうです。

印旛少年院は1962年頃には無事故で、体育実験少年院に指定されました。
1968年に千葉ニュータウン建設計画が決まり、1976年に収容業務停止、同年10月に収容終了になりました。27年5ヶ月で印旛少年院は廃止されました。


今の跡地は西の原4丁目の戸建住宅地になっていますが、開発前は草原の空地でした。
春は一面にタンポポが咲いていました。
初めて見た時の黄色の野原は忘れられません。
冬前に空地の草は焼き払われ、春先にはワラビやゼンマイ等が採れました。
(当時空地は焼かれるのが、一般的でした)
跡地は野草の花が咲き、昆虫が集まるガネーシャJr.にとっては理想郷でした。
その後ゴルフ練習する人が出てきて、ゴルフボールが飛び交う危険地にもなりました。


現在の西の原南街区公園にある「椎の木(スダ爺)」は、昔の施設の中庭にありました。
この一角には少し木が生えていました。
初めて「スダ爺」を見た時、誰が架けたか手作りブランコが吊り下げられていました。

いつから「スダ爺」があったか不明です。
しかし印西飛行場養成所と印旛少年院の中庭と、現在の西の原小学校西にある公園には存在していました。
出征する少年兵や陸軍飛行士と暮らし、少年院の院児を慰め、今は公園で遊ぶ小学生や地元の子供達を見つめています。
印西現代史の生き証人である事は確かです。


最後に航空写真を見てみたいと思います。
(1976年と2018年頃と思われます)


多くは「印西市歴史読本3」を参照しました。
印旛少年院は印西の黒歴史と言う人もいます。
しかし印旛飛行場や印旛少年院の土地があったから、千葉ニュータウンはあるのです。
こんな北総地域の中核市になるのは、誰が想像したでしょうか。

最近印西の歴史に興味を感じる、自粛生活しているガネーシャJr.でした。


こんにちは、ガネーシャJr.です。

ガラケー・デジカメ画像の2回目です。
今は消えた景色が写っていました。
ただ懐かしさに浸っています。
画像が荒くて、ごめんなさい。


たった数年で消えた建物もありました。
北総線印西牧の原駅北口にありました。
SOHOの為の建物でした。

北総線印旛日本医大駅の南側には、
ショッピングセンターがありました。
欧風の街の雰囲気、素敵でした。
先にはこんな温泉もありました。
印旛日本医大駅は昔の方が賑やかでした。
素敵な施設だったのに、モッタイナイ。

千葉ニュータウン中央駅南側。
デニーズと四六時中があり、
王将の場所が違っていました。
ここの一角に石窯パン屋がありました。
とても美味しいパン屋でした。

4銀行が並んでありました。
当時に完成したばかりの、
マルハン屋上から撮りました。


同じ建物ですが、店が変わりました。
今のトライアルはケーズデンキでした。

草深の蕎麦加賀屋さんの前あたりは、
ファッションセンターしまむら でした。

アルカサールの三井住友銀行の場所は
多田屋と言う本屋が入っていました。

ここは今のビックポップがある場所です。
何も無くて、完成したMOREが見えました。
風が強いと、砂嵐の大平原でした。
(元は印旛飛行場の滑走路)

取り敢えず判った画像です。
不明の場所は思い出したいです。
昔を懐かしむガネーシャJr.でした。
こんにちは、ガネーシャJr.です。

自粛中の買い物途中に、
人の少なそうな場所をちょこっと
お散歩しました。

今は田植えの最盛期、
農家の人は休めません。
ここは去年は休耕田でした。

外来種ナガミヒナゲシも最盛期。
この花、場所によって色違う!
キレイもあれば、醜い色もあります。

クローバーより白詰草の名が好き。

ホウチャクソウは面白い形。

この花、瑠璃草?可愛い!

昔よく見た小さないわゆる三色スミレ、
今は色が派手で、形が大きいです。
久しぶりに見た気がします。懐かしい!

公園ではツルバラが満開でした。
アップした方がキレイです。

新しいボタンの花が咲いてます。
黄色いボタンは好きな色。

まだ緊急事態宣言は続いています。
多くの人は疲れています。
周りの花を見る事で、
季節の変化を楽しみましょう。
今は最高の季節ですよ!
と思っているガネーシャJr.でした。