屠り 〜原始巫女 〜 白山信仰〜 今回のご神事のひとつです | Love&Joyな魔法使いハニエルさん

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今回のご神事のひとつが屠りの巫女たちとその末裔の集合意識の鎮魂と浄化です


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ニホンフジョシ
日本巫女史
中山太郎 著
発売日 2012/06/22
判型 A5 ISBN 978-4-336-05493-7
ページ数 696 頁 Cコード 0021
定価 6,825円 (本体価格6,500円)
【内容紹介】 【著者紹介】 【目次】

膨大な文献史料、口碑、伝承を横断し、古代から近代までの巫女の歴史を明らかにする。「常民」の民俗学を逸脱し、「非常民」の民俗学を樹立する試み。日本民俗学史に屹立する異形の一書! 図版多数。


中山太郎 (ナカヤマタロウ)
明治9年(1876)生まれ。報知新聞社、博文館につとめるかたわら柳田國男に師事。昭和22年(1947)死去。栃木県出身。著作に『日本巫女史』『日本盲人史』『日本婚姻史』『日本民俗学辞典』など。
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第一章 第二節 四 
巫女史と祭祀史との関係 より抜粋

巫女は祭祀としての葬儀史にも、亦深甚なる関係を有しているのである。仏教の渡来せぬ以前——即ち、我国固有の信仰と、祭儀とを以て、死体を葬り、死霊を祭るには、専ら巫女がその任に当っていたのである。神職の一つである祝
(ハフリ)の語原は、死体を屠
(ハフ)るを職とせし為に、葬
(ハフ)りとなり、更に祝
(ハフリ)となったことを知り、然も此の祝(ハフリ)が、元は巫女の役であることを知るとき、葬儀史における巫女の務めが、如何に重大なるものであったかを考えずには居られないのである。而して、此の問題は、相当に研究を要すべきことなので、詳細は本文に於いて述べるとする。



第七章 第二節 
司祭者としての巫女

神々の向上と巫女の退化—巫女は神託を宣べるときだけが神となる—墓前祭と巫女の職務—巫祝をハフリと称する原義—屍体を屠るは巫女の役目—ハフリは屠りに外ならぬ—内地の支解分葬の実例とアイヌ族のウフイ—夢によって知った霊魂の所在—瓢型墳の由来と瓢を魂の容れ物とした俗信—霊魂の神への発達と巫女—人家七世にして神を生ずる事—土佐で行われたタテ食えの神事—我国の紋章の起原とアイヌの神標—人が神となったことを知る民俗—琉球に存したマブイワカシと内地の口寄せ—社前祭と巫女の職務—巫女が軽視されて覡男が重用された過程 より

一、墓前祭と巫女の職務

神に対して行うた祭祀の起原が墓前であったか、社前祭であったかに就いては、昔から相当に異説が存している。それと同時に、世の謂ゆる官僚神道家なる者は、兎角に社前祭説を主張して、墓前祭説を排斥する傾きがある。勿論これは神道の発生的方面を故意に閑却して、無理勿体を付けたがる手段なのである〔一〕。併し、我国の祭祀は、文献的に見るも、民俗的に見るも、墓前祭に始まっていることは明確なる事実である。「日本書紀」の一書に、
伊弉冉尊火神生みます時に、灼かれて神退去りましき。故

れ紀伊国の有馬村に葬りまつる。土俗
クニビト
此の神の魂を祭るに、花ある時には、亦花を以て祭り、又鼓、吹
(フエ)、幡旗(ハタ)を用て歌ひ舞ひて祭る云々。
とあるのが、祭祀の所見の記録であって、然も墓前祭であることは、少しも疑うべき余地は無いのである。
更にこれを、民俗学的に見るも、墓前祭が社前祭より古いことが知られるのである。由来、太古の民族は、人は死ぬとその霊魂は黄泉国へ往く(霊魂が地下の黄泉へ往かずして、天上の高天原へ往くと考えるようになったのは、やや進歩した信仰である)ものと信じていたが、茲に考慮して見なければならぬ問題は、その霊魂は何者の導きも待たずに、自然と其処へ往ったものであるか、それとも何者か其処へ往けるように導きをしたのであるかと云う事である。それと同時に霊魂が果して黄泉国へ往ったか否かという事を、何者がこれを証明したかと云う点である。而して此の問題たるや、原始神道における霊魂観として、相当に関心しなければならぬ事であるにもかかわらず、従来の国学者とか、神道家とか云う者で、遂にこれに触れたことのあるのを耳にせぬのである。私の寡聞にして菲才なる、敢て此の問題を説明し得るとは信じていぬけれども、茲に管見を記して是正を仰ぐとするが、私の考えを極めて端的に言えば、それ等の事を行うた者は、即ち巫女であったと信じている。
私が改めて言うまでもなく、我が古代における屍体の始末は、素尊の言われた如く「顕見蒼生(アオヒドグサ)の奥津棄戸(オキツスタ)ヘ」で、野外に放棄するほどの原始的のものであって、まだ葬儀とか、葬礼とかいうものが、厳かに執り行われていなかったのである〔二〕。かく屍体が無造作に取り扱われたのに就いては、二つの理由がある。第一は屍体は霊魂の抜け殻と考えたことで、第二は屍体の腐敗を嫌ったためである。而して此の屍体を放棄することが、巫女の職務なのである。我国で、祝——即ち巫祝の徒をハフリと称することに就いては、羽振りの義であって、神官が着た浄衣の袖を鳥の羽の如く振るので、此の名ありと云う説もあるが〔三〕、元より民間語原説(エティモロジー)であって採るに足らぬ。これに較べると、ハフリは投(ハウ)
るの意で、古く屍体を投げ棄てる役を勤めていたので、遂に此名を負うに至ったものと解すべきである〔四〕。而して葬をハフリと訓んだことも、又この意であって、「万葉集」巻二に、高市皇子の殯宮のとき、柿本人麿が詠じた長歌の一節に、
言いさへぐ百済の原ゆ、神葬
(カミハフ)り葬り座して、朝もよし城の上に宮を、常宮と定め奉りて、神ながら鎮りましぬ……
とあるのや、同集巻一三の長歌の一節に、
朝裳吉城上の道中、角障ふ石村を見つつ、神葬(カミハフ)
り葬り奉れば、……
とあるのは、その例証であって、屍体を投棄したことから出た古語なのである。
然るに、古代においては、物を斬り断つことも同じくハフリと言うていた。「崇神記」に、大毘古命が建波邇安王の兵と戦い『其の軍士を斬屠りし故に、其地の号を波布理曾能(ハフリソノ)となも謂ふ』とあるのや、「万葉集」巻十三の長歌の一節に『剣太刀磨きし心を、天雲に思ひ散(ハフ)
らし、展(コ)ひ転び泥(ヒツ)
ち泣けども、飽足らぬかも』などを始めとして、此の外にも斬ることをハフリと云うた例は多く存し、現に屠の字をハフルと訓んでいるほどである。然らば何故に、我が古代にあっては、葬ることと斬ることとを同じくハフリと言わせ、併もそれを巫祝の上まで及ぼして、これをハフリと称したのであろうか。問題は愈々困難になって来たが、これに対する私の考えは略ぼ左の如きものである。
私見によれば、古く我国では屍体を葬るときは——勿論、その悉くではないが、前に辻占の条に挙げたような変死を遂げた者の屍体は、これをその儘に葬ることなくして、屍体を幾つかに斬って埋める民俗が存していたのではなかろうか。記・紀の神代巻に、諾尊が迦具土神を三段に斬ったとあるのは、諾尊が此の神のために冊尊を喪うたという単なる憤怒の余りではなくして、かかる悪神は幾つかに斬って葬る習わしのあったことが、神話に反映したのではないかと想われる〔五〕。学友内藤吉之助氏が「史学」第三巻第七号に掲載された「喪かり考」は、此の問題に対して、大なる暗示を投じているものであって、私もこれを披閲して、尠からず教えられた所が在って存したのである。而して内藤氏に従えば、喪がりとは、従来の国学者が説けるが如き——殯宮の意味ばかりではなくして、此の間において、屍体に何等の処置が加えられたに相違ない。されば、喪かりのかりは、必ずしも喪あがりの約語でなく、離すことをさかりと云うた。そのかりの意味であるとて、言外に屍体に加えられた処置なるものが、私が茲に云う截断と同じものであることを論じている。実に卓見として敬服させられたのである。
我国の古代に屍体を幾つかに截って埋めた民俗の在ったことは、伝説として各地に存している。こう言うと、それは支那の蚩尤伝説の輸入であると軽く斥けられるかも知れぬが、併し私としては、必ずしもそうだと許りは思われぬ点がある。茲に二三の伝説を挙げて、之に対する私見を述べるとする。屍体截断の最古のものとしては「崇峻紀」二年秋七月の条に、物部守屋の資人捕鳥部万の屍体を梟する状況を記して『河内国司、以万死状、牒上朝廷、朝廷下符偁、斬之八段、散梟八国』とあるが、それである。若し私をして、想像を逞うすることを許さるるならば、国史に載ったのは、僅に此一事だけであるけれども、国史に漏れた此の種の事実が、他に存したと云っても、決して無稽だとは考えられぬ。


人身御供と巫女(皿皿郷談所載)
而して更にこれを民間伝承に覓めんか、先ず最も有名なものとして誰でも知っているのは、奥州安達ヶ原の黒塚の伝説である。宮廷歌人であった平兼盛が『陸奥の安達ヶ原の黒塚に、鬼すむなりといふは誠か』と詠んでから、此の伝説は、専ら怪談として人口に膾炙されるようになってしまったが、これは当時の民俗として、妊婦が分娩に際し、その胎児を産出せずして死亡した場合には、妊婦の腹を割いて、胎児を取り出して埋葬する事が行われていたのを、居ながらにして名所を知るほどの歌人が聴きかじって鬼としたために、遂に怪談として伝わるようになってしまったのである。而して此の民俗は、アイヌ民族の間に近年まで行われたウフイと称するものと全く軌を一にしたものであって〔六〕、内地においても明治の中頃までは各地に行われたものである〔七〕。更に時代は降るが、陸奥国南津軽郡浪岡村大字五本松の加茂神社は、延暦年中に坂上田村麿が誅した女首悪路王の首を神体として祀り、隣村五郷村大字本郷の八幡神社は、同じ悪路王の片腕を祀ったもので、然もその神体は今に活きて損せずと云われているのや〔八〕、天慶乱に誅された平将門の首塚、胴塚、腕塚などが、東京を中心として各地に在ることなどは〔九〕、共に屍体を分割して埋めたことを物語っているのである。更に、丹波国北桑田郡周山村の八幡宮の縁起に至っては、此の伝説を最も詳細に尽している。社伝によれば、康平年中に源義家が安倍貞任の首を獲て帰洛し、これを埋める場所を占わしたところ、四つに截って東に山あり南に川ある池の四ヶ所に埋めよとの神託により、その地を覓めて同村に埋めたのであるが、猶お貞任の悪霊が荒びるのでそれを鎮めるために、宇佐八幡宮の分霊を勧請したのだと云うている〔一〇〕。



部落学序説: 白山信仰と穢多

http://eigaku.blog.ocn.ne.jp/jyosetu/2005/09/post_ea78.html

【第3章】穢多の定義
【第2節】穢多の役務
【第1項】白山信仰と穢多


中山英一著『被差別部落の暮らしから』に、長野県の被差別部落の人々と白山神社の関わりが詳しく描写されています 。
被差別部落の人々にとって、白山神社とは何であったのか、お知りになりたい方は、是非、ご一読ください。中山の名 文は、ここで、そのまま紹介したいところですが、中山の文章に流れる人間に対するあたたかさとやさしさを壊しては いけないので、私の言葉で紹介します。
中山によると、「白山神社」のことを、地元の人は、「しらやまさま」と呼んでいるそうです。
白山神社の祭りは、春と秋の年2回行われます。そのときは、村中のものがこぞって参加します。この祭りのときは、結婚して他所へ行った「女たちが、初子を誇らしげに抱き、晴れ着で里帰り」してくるといいます。
一連の宗教儀式がすんだあと、被差別部落の人々は、神社の境内にむしろを敷いて、そこに、それぞれの家で作られたご馳走を並べます。儀式に使ったお神酒もみんなに配られ、村の庄屋のおじさんの掛け声で、酒の肴の入った重箱がすべての村人のところへ廻され配られるそうです。

「「これは、おめえさんの所で作っただかい」なんていいながら、気持ちが溶け合い、和み合い、一体になるのです」。
戦後は、祭りの会食に加えて、素人演芸会が加わったようで、被差別部落の「若い衆」によって芝居や歌や踊りが披露されます。出し物は、「勘太郎月夜」や「名月赤城山」。「演ずる者と観客が溶け合う」ことによって、被差別部落の人々の中に「親しみや団結」が培われるといいます。「演芸は、人々に慰安を与え、明日の労働の活力源」になるというのです。
秋の祭りには、子ども好きな「白山さま」(しろやまさま)のために子ども相撲大会が開かれます。「負けても、勝っても、女でも男でも」(言葉の順は中山に從う)「同じ賞品がでた」そうです。
「白山神社は、部落の氏神として部落の人たちの祈りの対象として、深い信仰を集め」たそうです。
東日本の被差別部落によく見られる白山神社は、一体何を祀っているのでしょうか。
中山は、「江戸の弾左衞門の信仰にならったものではないか」と推測します。中山は、「穢多頭としては幕府から三千石取りの武士同様の処遇を受けていたが、世間では不浄な仕事とみなしていたから、職業からくる穢れを清めるために『おはらい』に強い白山神を屋敷神としてまつったのであろう」という柴田道子さんの説を紹介しています。
その言葉についで、中山は、柴田の次の言葉をとりあげます。
「権力と財力をほしいままにした弾左衞門であったが、己の職業に与えられた精神的いやしさからの解放を必死に願わずにはいられなかったであろう」。「賤民史観」が突如、亡霊のように出現してくることに驚かされます。
弾左衞門は、白山神社の神に「己の職業に与えられた精神的いやしさからの解放」を、本当に祈り求めたのでしょうか。幕末の弾左衞門は、「賤称」を変更して他の名称にすることを求めたけれども、彼は、穢多頭として穢多一門が、幕藩体制下全期間を通じて担ってきた穢多の職務を放棄しようとはしませんでした。「賤民史観」に拘束された歴史学者は、弾左衞門が、「穢多」という「賤称」だけでなく、その「身分」(役務と家職)まで放棄しようとしたと解釈しますが、それは歴史資料を完全に無視した読み方です。代々の弾左衞門は、己の職業に「精神的ないやしさ」を感じるどころか、「誇りと自負心」を持っていたのです。
弾左衞門は、白山神社の神に「己の職業に与えられた精神的いやしさからの解放」を祈り求めたりはしなかった・・・、それが、『部落学序説』を提唱する筆者の見解です。
それでは、弾左衞門や東日本一円にある穢多村の住人たちは、白山神社の神に何を祈ったのでしょう。
『部落解放史熱と光を上巻』によると、民俗学者の折口信夫は、加賀白山神社が「ククリヒメ」(黄泉国へ行って穢れを被ったイザナギを淨化させた女神)を祀っていることから、「ケガレ淨化との関わりを指摘した」といいます。同じく民俗学者の宮田登は「これは職能祖神というべきもので、その職能の安全を保護する神霊といってもよかった」といいます。宮田登著『ケガレの民俗誌差別の文化的要因』の中で、「ケガレた状態を元に戻す」・「穢れを除去する」神と説明しています。
筆者も、民俗学者の折口や宮田の説を継承せざるを得ないのですが、ここで、ひとつの難問に遭遇します。
白山神社は、古来から、出産の神、安産の神として祀られてきたという事実がもう一方にあるからです。出産の神、安産の神である白山神社の神が、なぜ穢多の神になっていったのか、歴史学者も民俗学者も明確な説明をすることができないでいます。被差別部落の人々でさえ、そのことを説明することができないでいます。
出産の神、安産の神である白山神社の神が、なぜ穢多の神になっていったのか。
この問いに、筆者なりの答えを出してみましょう。当然、「日常」・「非・日常」を含む「常の世界」と、「常」・「非・常」を含む「非常の世界」を視野に入れて考察します。
近世幕藩体制下では、「出産」というのは、女性だけでなく男性にとっても大切な出来事でした。その出来事は、一般的には、「日常」・「非・日常」の「常の世界」のできごとです。出産は、当然、「非・日常」的な出来事に属します。それは、「ケ→ケガレ(気枯れ)→ハレ」の循環の中の「ケガレ(気枯れ)」の範疇に入ります。出産のできことは、決して「ケガレ(穢れ)」(法的逸脱)ではありません。
近世幕藩体制下にあって、百姓は、飢饉に遭遇したときは、家族全員が飢死して家を断絶するより、生まれてきた子どもを間引く風習がありました。その方法は、生まれてきたばかりのあかちゃんの顔を見ることなく、母親が自分の太股であかちゃんの口を塞いで窒息死させるという方法でした。多くの場合、それは法的に禁止された犯罪でしたが、飢饉という危機的状況の中で、「産穢」として、黙認されたそうです。幕末期以降、諸外国の人々に、日本のこの風習が知られるようになりましたが、明治政府は、「混穢の制廃止」を打ち出し、「産穢」を廃止しました(「混穢の制廃止」は他にも理由がありますが・・・)。つまり、幕藩体制下の貧しい百姓の女性は、家族が生き延びるという止むに止まれぬ目的のために、生まれてきた子どもを母親自ら「屠する」いとなみをしていたのです。
近世幕藩体制下の「非常民」は、二つに分類することができるということは以前詳述したとおりですが、「非常民」は、軍事を担う非常民である武士と、警察を担う非常民である武士・穢多・非人・村方役人に分類されます。
「屠する」という言葉の関連で言えば、戦時において敵の城を屠するは武士の役務、平時において死刑判決が出た犯罪者である人を屠するは武士・穢多・非人の役務であるということになります。
「非常民の学としての部落学」の立場からみると、白山神社によって庇護される民は、女性と穢多ということになりますが、両者は、「人を屠する」ことがあるという一点で、共通したものを持っています。
人口調節機能を一方的に女性に押しつける父権制社会の目から見ると、「女性は穢多なり」(女性は穢れ多い)と見えるのかも知れません。原因を作ったのは男性の側にあるのですが、それを棚に上げて、女性に対して侮蔑の言葉をなげかける・・・、その方が本当は非人間的です。「させられた側」が精神的に負い目と苦しみを担って生きていかなければならず、「させた側」は、みずから手を汚していないという理由で、「させられた側」をあなどるように見下すのです。検断・穢多・非人は、犯罪者を職務上「屠する」とき、自ら自分の子どもを間引くことを強要された母親と同じく、精神的に深い負い目と苦しみを負わざるを得ません。
しかし、それは、柴田がいうような、「己の職業に与えられた精神的いやしさからの解放」へとつながっていくのかどうか・・・。
もう少し理解を深めるために、「屠」という言葉の語源をたどって検証してみましょう。
語源論に立脚して、部落差別を見直す辻本正教は、その著『ケガレ意識と部落差別を考える』の中で、彼独自の解釈を展開します。そして、「屠」(「ホフル」)から「穂振る」を抽出し、「屠」は、「五穀豊穣、稲・麦の実りを得よう」とする儀式であるといいます。
辻本は、「語源論」的研究を標榜しているのですから、「屠」についても、もっと深く語源を尋ねるべきでした。しかし、彼は、「屠」の本来の語源は完全に無視してしまいます。彼が無視した「屠」の語源とは、『漢字の起源』(加藤常賢著・二松学舎大学東洋学研究所)に収録されている「屠」の解釈です。
加藤は、「屠」という言葉には「殺」の意味はないといいます。
「屠」は、「尸」(尻)から「者」(人)が出てくる様、「子供が母の胎内から生まれる時」の様を指す言葉であるといいます。難産の場合、あかちゃんは生まれても母親が死ぬケースもありますが、その場合は、「子、母を屠す」と表現されます。>

加藤は、「屠」の字義として、「子を生む場合の生子門の裂傷というのが本義である」といいます。「屠」は、母親が、自ら傷を負いながら、新しい命を生み出す様を伝えている言葉なのです。
白山神社が長い間、出産の神・安産の神であったのは、「母子共に健康で出産を迎えることができるように」という母親の願いと祈りの対象であったためでしょう。もし、産道に傷を負った場合には、それが一日も早く癒されるように・・・というのが、白山神社に参って願をかける本当の理由でなかったのかと思うのです。
検断・穢多・非人が、犯罪者を「屠する」場合も同じことが言えるのではないかと思います。
検断・穢多・非人にとって、犯罪者に対しては、直接うらみ・つらみは持っていなかったでしょう。しかし、役務上、犯罪者を処刑する命令が上から出されたとき、社会の安定のために、涙を飲んで、犯罪者を処刑し、世の中から矯正不可能な犯罪者を取り除き、世の中の安定を維持せざるを得ないのです。そのようなとき、刑を直接執行する検断・穢多・非人は、精神的に大きな苦痛と葛藤を被ることになります。処刑される人がどんなに重罪を犯した犯人であったとしても、人ひとりを殺さなければならないという心の傷を深く負うことになります。
白山神社の神は、そのこころの傷を癒す神でもあるのです。
ここに、白山神社の神が、「女性のための神」であるのと同様に「穢多のための神」でもある理由があるのではないかと思います。女性は、新しい命を生み出すために自ら傷を負う、穢多・非人は、新しい世の中を生み出すために、自ら傷を負いつつ役務を全うする・・・のです。
西日本で、白山信仰が普及しなかったのは、西日本の穢多村では、穢多・非人の職務について、規律と責任、近世警察官としての自負心を与える別の教説、浄土真宗の合理的な世俗化倫理が存在していたためでした。
次回(次項)は、徳山藩の「屠者」・「屠人」に関する資料を検証して、近世幕藩体制下の穢多・非人の役務の様相を具体的に考察します。次々回(次々項)に、穢多・非人に影響を及ぼした、浄土真宗の合理的な世俗化倫理を取り上げます。


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