私はここ数年

ある寄付とボランティア活動に

参加しています


客観的にみても

慈愛に満ちた団体だと思うし

皆んな自分の時間を割いて行っている

利益一切なしの

完全なる無償のボランティア


大変ではあるけれど

そこで得られる豊かさは大きくて照れ

お金を払って寄付をしながら

毎年心を打たれて涙するし

自分が豊かさを求めて

参加しているという感じ


見知らぬ子ども達の

喜びや笑顔のため

そこへ沢山の人の想いが巡るので

豊かさが溢れまくっているのです愛飛び出すハート


この慈愛に満ちた活動は

年々広がっていて

毎年、笑顔に出来る子ども達の数も

増えていっています





でも






ふと思ったのです

それだけ

手を差し伸べられるべき

子ども達がいるという現実


誤解を承知であえて言うと

『可哀想な子たち』

と表現した方が

分かりやすいのかもしれません

勿論、簡単に可哀想だなんて

同情したくはないし

1人1人の事情は計り知れませんショボーン


だけどそのような

可哀想な子に手を差し伸べて

喜んでもらえたなウインク

良いことが出来たなニコニコ

と思うから

豊かな気持ちになっている私たち


それってどうなんだろ?

私たちがもっともっと

と毎年支援していく子の数が増えるのは

決して喜ばしいコトではないはず

それだけ厳しい環境下にいる子が多い

ということだから






私たちが目指すのは

この支援自体が必要なくなる

ということなんだろう






豊かな気持ちになる活動の裏側には

目を背けたくなるような

辛く厳しい現実があるし

それがあるからこそ

私たちは豊かさをいただいている


なんという矛盾なのかびっくり

とつくづく思う






そんな活動は

自己満足だ、偽善だ

と言う人がいたら

昔なら猛烈に腹が立っていたと思う


けれど今は

そう言う人もいるだろう

と普通に思うし

実際に自分自身も

自己満足でやってるのかもしれないな

とさえ思うようになったてへぺろ


自分のこの数年の変化で

1番驚いたのは

子どもをそういう環境下に置く

親に対しても

腹立たしさを感じなくなったこと


信じられない、許せないムカムカ

以前ならそんな風に思っていただろうけど

そんなどこかの誰かも

いつ自分と逆転するか分からない

同じ境遇だったなら

自分がそうならないとは限らない

自分も他人も全て紙一重

そう感じられるようになったので


逆に

自分が良いことをしている

という感覚もなくなって

いつかどこかの自分のために

やっているのかもしれない

そうなると

慈愛というより

自愛なのかもしれないびっくり


でもそんな言葉とか

意味もどうでも良くて


今はただ目の前に

手を差し出している人がいるから

手を差し伸べている

それだけのこと

なんだと思う


目の前の

出来ることをやるのみ

どんな時でも

結局これ一択なんだな気づき

と納得した次第です






ありがとうございましたおねがい