私がN響を聴かないわけ♪

 

私は、小澤征爾氏の自伝「ボクの音楽武者修行」 (1980年) (新潮文庫)を読み、それ以降は現在までN響を聴かなくなりました。

世界の小澤氏の言うことを聞かないで敵対したN響は、二流楽団だと確信したからです。

小澤征爾氏のご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

小澤征爾さんが世界に飛び立つ転機“N響事件”とは 三島由紀夫、石原慎太郎らが団結 「敬意と感謝」追悼

2/9(金) 21:39配信

 

 世界的な指揮者の小澤征爾(おざわ・せいじ)さんが6日、心不全のため東京都内の自宅で死去した。88歳。旧満州生まれ。

 

 中略

 その小澤さんが、日本から世界に飛び出すきっかけとなったと言われているのが、1962年に起きた“N響事件”だった。小澤さんが26、27歳の時、NHK交響楽団(N響)と半年間「客演指揮者」として契約。その後、さらに契約延長し精力的に活動を行っていたが、香港、シンガポール、クアラルンプール、マニラなどで公演を行う海外ツアー中に楽団員と小澤さんの間に軋轢(あつれき)が生じる。さら同年11月に行われた定期公演の一部酷評報道が決定打となり深刻な対立に発展した。

 

 同年11月16日にN響演奏委が「今後、小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には一切協力しない」と表明。小澤さんとNHKは折衝を重ねたが折り合わず、逆に小澤さんは契約不履行と名誉毀損で訴える事態となってしまった。

 

 そしてこの騒動はその後、政財界を巻き込む社会問題、世代間闘争に発展。浅利慶太、石原慎太郎、井上靖、大江健三郎、谷川俊太郎、三島由紀夫、由起しげ子ら演出家や作家が「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、NHKとN響に質問書を提出。芥川也寸志ら若手音楽家約10人が事件の真相調査に乗り出した。最終的には、翌1963年1月にNHK副理事と小澤さんが話し合いの場を持ち、一応の和解が成立した。しかし、N響に復帰というわけではなかった。

 

 この“N響事件”は小澤さんに大きなショックを与え、「もう日本で音楽をするのはやめよう」と活動の舞台を世界に移していった。そこから数々の「日本人初」の偉業を成し遂げた“世界のオザワ”。小澤さんが次にN響の指揮台に立つのは、32年3カ月後の1995年1月だった。後略