自分がどうやらHSPらしいことはわかった。
兄にアスペルガーの兆候があるので、
発達障害的なことも、やっぱり自分にもあるかも知れないと思っている。

そして、自分はアダルト・チルドレンでもある。

父は今こそ飲酒はさせていないが、
若いときはアルコール依存の気があった。
連続飲酒をするとか、そこまでは行かないが、
弱いのに、毎晩仕事から帰ると自分の適量をこえて飲酒していた。
ご近所や、親戚が集まる席でも、すすめられるがままに飲んで、
毎回泥酔して、誰かに抱えられて帰宅していた。

暴力はなかったが、暴言はあったし、
子供のころは、夜の父は別人だから、大事な話は
休日の昼間にしよう、というのが我が家での暗黙のきまりだった。
昼間は、気のいい、穏やかな人だった。

母親とは毎晩けんかが絶えなかった。
母は全く酒を飲めない体質だったので、
そもそも酒を飲むということに何のメリットがあるのか
わからない、という感じの人だった。

とにかく、夜に、親になにか頼んだり、相談すると、
2人の間でなすりつけあいになり、
「ごめんなさい、もういいません」という感じになるのが
お決まりのパターンだった。

両親ふたりに共通していたのは、
生真面目で、他人には自分のいいたいことはいわず、
ひたすら従属するというか、Noといわないところ。
そのぶん、内弁慶で、家の中では我を押し通す感じだった。
子煩悩といえばそうだったけど、
子供がいつまでたっても、子供としか認識せず、
大人になっても、ひとりの個人として見てくれることが
ほとんどなかった。

兄は、そんな両親に楯突くこともなく、
居心地が悪くなってきたら、自分の部屋に閉じこもった。

両親は兄に対して、
小さいころからとにかく手がかかる子、という感じで接していた。
同い年のほかの子とは違う、というのもずっと感じていたようだ。

兄と自分とは年が7つ離れている。
自分は生まれたときから2人兄弟だが、
両親との続柄は、三男だ。
兄と自分との間に、次男がいた。

次男は、3歳のとき、列車にはねられて死んだ。
いちばんかわいい盛りで、しかも顔や性格も
本当に誰からもかわいがられる子だったそうだ。

列車にはねられたのは、兄や近所の子たちと
遊んでいて、ひとりはぐれて線路に入ってしまったため、
ということだ。

母親は当時6歳だった兄を、責めたらしい。
ぶつけ所がなかったのかも知れないが、
兄にとっては本当に酷な話だったと思う。
6歳児が、弟を亡くして、それだけでもショックなのに、
自分に責任を負わされるなんて。

兄はその件以来、あまり話さず、自分の世界に
閉じこもりがちな子になったらしい。
それまでは、周りの人が「静かにしろ!」
といっても黙らないほど、テンションが上がったらとまらない子
だったようだ。
吃音があったため、小学校にあがってから
いじめられたりしたことも原因だったようだ。

そんな兄が小学1年生の時に私は生まれた。

小さいころ、とにかく次男と重ね合わせて見られて、
次男とくらべて、かわいげがないだのなんだの、
残念な子あつかいをされていたのを覚えている。

顔だけは、次男に瓜二つだったからだ。
遺影がいまでも仏間に飾ってあるが、
私自身が、その遺影と同じ年のころ、
「なんで自分の写真が、死んだ人と同じならびにあるのか?」
と親に尋ねて、困らせたという。

母親は私を産む前に流産を2回している。
私を産んだとき、母の年齢は36。
1974年当時としては、かなり高齢出産だったと思う。

手のかかる長男、事故死した次男、
2度の流産を経て、出産ができるぎりぎりの年齢で
授かった子だけに、
期待するものは相当大きかったようだ。
女の子がほしかった、というのもよく言っていた。

しかし、その期待にはことごとく答えられない私。
まず、男の子として生まれてきたし。

人懐っこくて、誰からも可愛がられた次男とくらべて、
引っ込み思案で、人見知りが激しく、なかなかなつかなかったようだし、

また文字や言葉を覚えるのが早かったようで、
(3歳か4歳のときには兄の読んでいる雑誌や漫画を読むようになり、
小学校に上がる直前には小学館の学習雑誌「幼稚園」の、
保護者向けのページが読めるようになっていた。)
変に大人の機嫌を先取りしたり、ませたことをいうので、
扱いにくい子だったようだ。
(まわりの大人の手の内を読んでしまう。保護者向けのページから
子育て論などの知識だけ得ていたため。)

また、母乳が出なかったこともあって、
授乳期は完全に粉ミルクのみで育ち、兄にくらべて
病気もせず、発育もよかったことも、
母親からすると変な子に感じたらしい。

次男の事故死で受けた、家族の心の傷を直接は知らない子でもあるし、
祖父母との接点があまりない子でもあった。
(生まれたときにはすでに祖母は他界していて、
祖父は認知症が進行していたため、私が誰か、
もうひとつ認識できないまま亡くなっていった。)

小さい時から、なんとなく家の中でいつも浮いていた。
世代がちょっと飛んでしまっているというか。
実の両親のもとに育っているはずなのに、
自分自身の感覚としては、祖父母に育てられているような感じがあった。

変に賢くて、体もわりと丈夫(小児ぜんそくがあったが、
小3のときに少年野球を始めてからケロリと治った)
だし、妙に聞き分けがいい(先回りして大人の思惑を読み取る)
ので、トイレの独り立ちができるころになると、
両親(特に母親)は、なんとなく、「この子はほっといても大丈夫だ」
と思ったようで、
小学校に上がって以降は、学校の保護者参加の行事にはほとんど顔をださず、
子育てやしつけは学校に丸投げに近かったように思う。

外でしつけられて育つものだから、ますます家では
浮いていった。中学生になるころには両親にとって
思春期なのもあいまって、
「何を考えているかさっぱりわからない」子になっていたようだ。
兄の方が、「できは悪いけど、自分達に似た可愛い子」として
扱われていたような気がする。

そんな空気を察して、とにかく、親元にいる間は
両親に心配をかけないように、優等生でいるようにしていた。
何か問題を起こして、学校から呼び出しをくらうとか、
三者面談や、家庭訪問で、先生からいらぬ不安な情報が
両親の耳に入らないように、つとめていたし、
家では「そこそこ子供らしく、でも心配させるようなことは決してない」
という子を無意識に演じていた。

機能不全家族で育った子の6つの役割として、
(1) ヒーロー(英雄)
(2) スケープゴート(身代わり)
(3) ロスト・ワン(いない子)
(4) プラケーター(慰め役)
(5)クラン(道化役)
(6)イネイブラー(支え役)

があるそうだが、どれか1つではなく、
6つの役割を、場面ごとに使い分けていたと思う。

中学までは、今思えばなんでかわからないが、
授業中の集中力がハンパなく、
授業をききながら、予習と復習を同時にこなし、
さらに教科書のすみっこにパラパラ漫画を描く余裕まである子だった。

成績のことで、先生から何か言われることほとんどなく、
塾にも行かなかったし、受験勉強も全くしなかった。
(でも体育は並か少し低め、数学は中学2年のとき、突然
わからなくなって、高校卒業まで続いた。
あとはほとんど、5段階の4か5だった。)

公立高校の入試の時、自己採点の結果が、
5教科で各20点、計100点満点のところ、
数学がわずか1点にもかかわらず、合計76点という、
ものすごく偏った点数だった。
(数学以外が満点ではなかったのは、ケアレスミスだった)

学校生活ではとにかく敵を作らず、友達は多かったし、
学級委員とか、生徒会の役も引き受けたし、

当時の中学校は校内暴力ブームの第二期といわれているころで
荒れていて、
先生たちが、非公式に生徒の中から有志をつのって(というかスカウト)、
学校を建て直すという会を立ち上げ、そのメンバーにもなっていた。
(表立って活動するのではなく、
たとえば班がえの時にかたよった班ができないようにとか、
体育祭や文化祭の時に、役割分担が公平になるようにするとかのために、
生徒の側から根回しや裏工作をする、という、今考えるとちょっとどうかな、と思う会。
それくらい、当時は学級運営がむずかしかったようだ。)

今思い返すとウソのようだが、
少なくとも、中学卒業までは、なんだかとっても器用に
大きな問題なく過ごした。
どれがどれとうまく関連付けできないのだけど、
HSPでエンパス、の要素と、発達の偏りの要素と、アダルトチルドレンの要素が
がっちり、このころまでに出来上がったように思う。

高校生になってから、少しずつそれが裏目に出始めるのだけど…