冷蔵庫の製氷機能小説「時次郎」 | ハンサムブログ
たっぷりと時間をとったアロマなバスタイムの後、
薄暗い間接照明の光が照らす中層賃貸マンションの一室で、地方都市特有のまばらな夜景を見下ろしながら、たっぷりの氷とともにグラスに注いだミネラルウォーターを喉を鳴らして飲み干す時次郎。

彼が常飲するミネラルウォーター『コントレックス』は、その並外れた硬度故に時次郎の尿管に着々とカルシウムの結晶を育てつつあるが、尿路を刺して痛みを誘発するにはまだ不十分な大きさだから、幸か不幸か彼は、いずれ爆発的な痛みを下腹にもたらすその結晶の存在を知らないまま、アーバンナイト気分に毎夜浸っている。

トロリとしたぬめりとしょっぱさすらを感じる程の硬水は正直言ってしまえばちっとも美味しくはないのだが、コンビニでも手に入るようなありきたりな軟水ではアーバンな夜を彩るには力不足だというのが、時次郎がコントレックスをチョイスした大きな理由だ。
皆が不味いという硬水を上手そうに常飲する事自体がカッコイイではないか。

飲み水以外、飯を煮炊きしたり茶を沸かしたりは宅配されるウォーターサーバーの水を使用しているが、その水はそこから少し山を登ったところの豊かな水源から湧き出る水を、錆びた水道管を伝って時次郎宅前を素通りして遙か遠く離れた下流から取水した単なる水道水をろ過して防腐剤を混入したものだから、実は蛇口から出る水の方が新鮮で健康的なはずなのだが、しかしたとえそうであったとしても、時次郎にとって水道水をコップに汲んで飲み干すなどカッコワルイ事は出来ないから、これはこれで正解だ。

-------------------------

こんな男の怖気立つようなナルシシズムに毎日付き合わされる俺の、我慢強さが解るってものだろう?

-------------------------



翌朝、目覚めた時次郎は熱いシャワーを浴びてから薄いシャツを羽織り、買い物に出かける。


駅から歩いて10分もすれば、あえて住居を高層に重ねる必要が無い程に土地は余っている地方の小都市によくある、名前ばかりが変に豪華な二階建て木造モルタル造りのアパート群の中に、唐突といったふうで樹立する時次郎のマンションのエレベーターを、英国製折り畳み自転車を小脇に抱えたまま下りると、低層モルタル住居の間を駆け抜けながら、小さな優越感と哀れみの薄笑いを何処とは無くに投げかける

ここに暮らす人たちは、蛍光灯の事務的な灯りの下でだらしなくテレビを観ながら夜を過ごし、間接照明のくつろぎなど知らないままに、水道水をがぶ飲みして一生を送るに違いないのだ。

自動車免許を持たない時次郎は、車に興味を持つ事自体が子供っぽくてカッコワルイと主張するが、かつて、酔った勢いの職場の先輩から、
「車を維持するには少々頼りないオマエの経済力と正面から向き合う事を回避している事の言い訳だろう」と、人差し指を鼻先に突きつけられた事があり、酷く憤慨した事を今でも根に持っている。

高校を卒業すると同時に原付免許はかろうじて取得したが、騒音と排気ガスを撒き散らして走る原付バイクは絶対にお洒落ではないと常に感じていたから、自動車など持っての他なのに、低レベルな人間たちにはその事の意味がわからないらしいと時次郎は吐き捨てる。
だから彼の交通手段は都会ほど運行本数が多くない電車とバス、そして小さく折りたたむ事ができる英国製の小洒落た自転車が頼りなのだ。


向かった先は最寄り駅から準急電車でかっ飛ばして40分で到着するターミナル駅の、駅ビル地下にある高級食材店だ。
今夜は付き合い始めたばかりの彼女を初めて部屋に招待する大切な夜だ。
飯炊き女じゃあるまいし、彼女に料理をさせるなんて無粋な事は決してしない。
自慢の手料理でもてなすのだ。




薄暗い照明の下で、ペラペラと唾を飛ばして自分の事を語り続ける時次郎の前で、女の苛々は今まさに頂点に達しようとしていた。

あまり見慣れない野菜が油まみれになったサラダに振りかけられたあきらかに使用法を誤っているチーズ片は生ゴミのような匂いを放って、折角の野菜たちを喉につかえさせた。

時次郎自慢のビーフシチューは、煮込みとスパイスが足りず、噛み切れない肉の硬さと口いっぱいに広がる獣臭さで、一口なんとか飲み込んでスプーンを置いてしまった。
浮き立った気分で沢山話をしたくて時次郎の部屋を訪ねた女だったが、
女が何か口を開けばその話題を時次郎が遮り奪い取り、そこから自慢話が延々と始まってしまって、ちっとも話をさせてもらえない。
本人はスノッブをきかせているつもりの話は、つまらないただの嫌味にしか聞こえない。

-------------------------

「おいおい、この女にとっての 『会話』ってのは、ひたすら相槌を打って同感されることが『会話』なんだぜ。
いい加減にお前さんのどうでもいい自慢話は切り上げるこったな。」

ガラゴロと、今まさに一仕事終えた彼は、やれやれとうつむきながら頭を振って、煙草に火を点ける

-------------------------

水垢がうっすらとこびりついたグラスに注がれたワインのあまりのエグ味に耐えかねて、
ただでさえ美味しくない料理に唾を飛ばし続ける時次郎の自慢話を、少々尖った声でかろうじて制した女は、「お水が欲しいわ」と時次郎に要求した。

話を中断させられて一瞬ぽかんとしていた時次郎は我に帰り、
グラスにフリーザーで作られた今まさに出来立てのキューブアイスをカラコロと投げ込み、待ってましたとばかりにコントレックスを注ぎ込む。

全く冗談じゃないわ。ビーフシチューを食べた後にこんな硬水を飲んだら脂が張り付いて、2~3日はシチュー臭いげっぷが止らなくなってしまうのに。

静かな怒りの臨界とともに時次郎の本質を、形は洒落ているが中身は安っぽいベニヤ板でできている、先程時次郎が自慢したばかりのダイニングテーブルと同様と見抜いた女は、時次郎のプライドを打ち砕き、この部屋を離れる事を決意した。

「へーー、時次郎さんて、四角い氷を平気で使うんだね」

一瞬、その言葉の意味を図りかねた時次郎は、遅れてその真意を悟り蒼白となる。

-------------------------

「クックック、お嬢さん、そこは板氷をアイスピックで砕く所だよな。」

新たにポンプで汲み上げた水を製氷皿で冷やしながら、
冷蔵庫の製氷機能は自虐的に苦笑い、煙草を横咥えた唇から濃く長い紫煙を吐き上げる。