「死ぬならピンピンころりといきたいねぇ」
「介護されるようにはなりたくないねぇ」
「迷惑かけるけんボケらんようにせんと」
自分の祖父や祖母から、幾度となく聞いた言葉。
そしてご年配の方と話す中で何度も聞いた言葉。
私は、ずっと介護の仕事に携わりながらも、いえ、携わっていたからこそ、、今のお仕事に出会うまで、健常者の自分が何らかの理由で不自由になってしまうことがとってもこわかったという過去があります。
私の母は、特別支援学校の教員をしていました。
私が幼い頃に父が癌で他界したあと、母が再婚するまでのシングルマザー期間もあったし、よく職場に行っていたから普通の人よりも障害児とか障害者と触れ合うことは多くありました。
母の楽しそうな仕事姿を見ていたからなんの抵抗もなく仲良くなれたし、今でも連絡を取り合っている子もいるけど、でもその異質な世界に触れれば触れるほど不安が大きくなっていったように思います。
障害を持って生まれたら、みんなと違う学校に通って、一生施設に住んで、或いは一生親元で、仕事も違って、、、
施設に住んだら、起きる時間も、寝る時間も決まっているし、食べるものも選べない。出かけることも難しい。
選択が狭められた場所で生きていくのか?って。
そして、親の立場では、
自分が死んだらこの子はどうなるんだろう?って心配するお母さんやお父さんにもたくさん出会いました。
自分に置き換えて考えると、自分の子どもにもし障害があったら一生介護しながら子どものために生きて、死ぬまで安心できないし、なんなら死んでも成仏できなさそうだし、
施設にいれるんだとしたらそれはそれで罪悪感に苛まれそうだなぁとかそんなことをずっと思っていました。
だから息子がお腹の中にやってきて、エコーで姿が見えるようになってからも、腕はあるかな?足はあるかな?指はあるかな?って実はとても気にしていた。
生まれてからも身体、脳の発達は人一倍気にしていたと思います。
それは、待ち受ける未来を人より見てしまっていたから。
私より明確に障害がある人の辿る道が見えなかったとしても…
「死ぬならピンピンころりといきたいねぇ」
「介護されるようにはなりたくないねぇ」
「迷惑かけるけんボケらんようにせんと」
みんながよくいうこのような言葉も、根っこをみれば、
迷惑をかけてはいけないとか
動けなければ生きる価値はないとか
まだまだ制度の整っていない社会への不安から出る言葉かもしれないですね。