全関西のリレーが終わり、総括mtをする。その日の夜は飲み会をして、翌朝から方々へ寄り道をしながら大阪へ帰る。大阪へ帰ったらバイトだな。あ、部室で備品のチェックもしないと…。そういえばシーズン中にあのワックス切れたから買い足そう。新入生ドドーンと来てくんねえかな。ジャンパー欲しい(切実)。今年のオフトレは何しよう。ひとまず九大戦から逆算して計画だ。夏には○○山登りてえな。3000mでPB出してえな。あの大会に出てみようかな。とにもかくにも、今季より強くなってやろう。。。
こうしてまた来シーズンへの準備が始まる……と思うが、来シーズンはもう来ない。少なくとも、今までのような全てのベクトルをスキーに向けた状態では。4月から新天地、雪とは無縁の地で社会人のスタートを切る僕にとり、その現実は正直言って受け入れ難い。僕からスキー部の要素を取り除いて残るものは何か。現時点では「殆ど何も残らない」という答えを用意しているこの問いを自らに投げかけて改めて、僕が学生生活の殆ど全てをスキー部に捧げてきたことを実感した。
自分自身に踏ん切りをつけるために、4年間のスキー部生活を履歴書のように書き連ね、そこから思うことを綴ろうと思う。どうやらこのブログは全部で約13,000字あるらしい。覚悟を決めて読むことをオススメする。
スキー部に入ることは殆ど始めから決めていた。クロカンをやることも。小学生(もっと小さかったかも)から親に連れられスキーをしていた。我流で、なかなか上達しなかったけど楽しかった。親類がクロカンをしていたことも自分が競技を始めるきっかけになった。高校時代に陸上部で長距離選手だったこともあり、体力にはわりかし自信があった。4年間打ち込めば何とかなるだろうという思いだった。そして、最後の一押しとなったのが当時4回生だった野田さんだった。同じ学部、同じ出身地、石橋住み。そしてなぜか話を聞き入ってしまう魅力があった。「この人についていけば大丈夫」そう直感し、割と早く入部した記憶がある(実際は入学直後に竣太が入部宣言していたらしい。早すぎやろ)。
入って最初の記憶は、当時3回の柘植さんに教えてもらったこと。道具の使い方から基礎のドリル、各走法の滑り方、、、この時教えてもらったことが割と今も頭に残っている。ラントレでは最初こそ浪人からあがりたての鈍り加減だったが、次第に戻っていくことがエキセイのタイムから実感できた。当時から「お前は体力があるから後は技術だな」と言われていた。結局この4年間、僕の最大テーマはそれだった。
夏、ノル合宿。先輩が言う「ハットリさん」とは誰なのか。エグいメニューというが、どんなもんなんだろうか。よく分からないまま野沢へ向かった。初めて会った「服部さん」は優しそうな方だった。というか優しい(本当です)方だった。笑顔で「クロスカントリーの世界へようこそ!」と言われ、相変わらずよく分からないままこちらも笑顔で「はい!」と答えた。
果たしてメニューはしんどかった。雨と汗でビショビショになりながら、上ノ平まで登った。登山も長く険しかった。加えて、走ってダッシュすれば簡単に心拍を上げられるのに、ローラーではダッシュをしようとしても技術的にダッシュできない。心拍を上げられないことにもどかしさを感じた。やりたいことができない虚しさはあったが、それでもこの時服部さんに教えてもらったことは自分の中で基本動作として今も刷り込まれている。そうそう、練習後に入った川の冷たさに幾分爽やかな気持ちになった。あとおかたくが川に飛び込む瞬間の写真がかなりツボだった。
↑曽爾で。こんなところからスタートしました。
なんだかんだ初の九大戦へ。そこそこいけるだろうと思っていたのが大きな間違いだった。陸上の5,000mと同じとは思えないほど、クロカンの5,000mはしんどくて苦しいものだった。リザルトを見て「この先輩たちに追いつけるのか?ポイントとか本当に取れるのか?」と真剣に、というか半ば絶望的な気持ちで数年後の自分を案じていた。オープンで出場したリレーでは正シードの福井さんにとんでもないスピードで抜かされ、滑りながらも率直にスゲ〜と思っていた。あと、この時にはおかたくが正シードだった。レース前は不安げな顔で写真撮られてたのに、レース後は誇らしげにメダルと写真に収まっており、ちょい感動した。インカレにも出場し、リレーで入賞こそして嬉しかったものの、福井さんや道坂さんに乗っかった形が強く自分の実力だとは思わなかった。インカレ後、野沢へ移動したタイミングでコロナ感染拡大のために全関西が中止となった。その時はまだ、ここまで学生生活が影響されるとは考える由もなかったのだが………。
2回生の1年間は手探り、そして挫折の1年だった。コロナによって全体練習は禁止され、自主的なオフトレに委ねられた。思えばこの時あたりから、自分でアレコレと考えて練習に臨む、その意識が強くなった。朝5時に起きて河川敷でローラー、8時前には帰宅して寝る。日中の暑さを避けて16時頃からランニングをし、22時には寝るという効率的なのか非効率的なのかよく分からない二部練をしていたのがこの時だった。バイトも授業もなくなり(?)、普段の活動までも制約を受けたけど、その中で「考える自由」だけはあった。暇があればひたすらYouTubeでトップ選手の滑りを観察し、自分に落とし込めるところを見つけようとした。手持ち無沙汰なときはエアーでフォームを確かめた。結局4回生の3月までそれはルーティンとして確立され、暇さえあればクロカンの動きに落とし込めないか考える日々は続いた。
↑淀川(2回生)
シーズンは焦りと挫折、そして絶望に占められた。年末の九大戦がなくなり、自主的に行った野沢では名古屋のしょーりに完敗。マズいと思った。同期に負けるという事実が重くのしかかった。続いて出場した大山のレース後、足が動かせなくなった。走ろうと思っても力が入らない。初めて出た症状を放置するわけにもいかず病院へ行くと、全治3ヶ月ほどのケガだった。このまま2年目が終わってしまうのか。他の部員が続々と合宿に入る中、自宅で悶々とする日々を過ごした。少しでもいいからチームに帯同したい。たとえ滑れなくとも、チームの雰囲気の中にいたい。幸い医師からも軽運動の許可は出たため、全関西期間に限り合宿に参加した。滑ってみると、予想に反して案外軽快であった。なんとかなりそう、1回生よりは走れる。そう思い、リレー出場を志願した。身体はどこも疲れていなかった。当たり前だ、そもそも練習していないのだから。
リレーは地獄そのものだった。レース中、チームとして一緒に走った先輩達に謝りたいと思ったほどまでに。出走直後、早々に息が上がった。動きが鈍い。こんなはずではなかった、もっと動けるはずだと思っても、ロクに練習を積んでいない身体が反応するはずもなかった。かけられる声援が頭の中で空しく響いた。レース後、悔しくて、不甲斐なくて、自分に腹が立った。自身ありげにリレーを走れると言った前夜の自分を恥じた。着実に結果を残している他大学の同期を羨む一方、チームの足を引っ張ることしかしていない自分はチームにとって足手まといであると思った。新体制となり主将に就任したものの、いっそ選手としては区切りをつけ、サポートに回るのもいいのかもしれない。サポート専任の部員が1人でもいれば、部は運営、競技双方において今より上手くまわっていくだろう。そういう道だってあるはずだ。一時は本気でそう思っていた。
それでもなぜか選手を引退することにはならなかった。選手続行を決める何か決定的な機会・理由があったわけでもなく、決意を固めきれないまま再び4月に入ったからという表現が最も妥当だろう。選手を途中で退くという考えは自然消滅した。代わりに、「2回生の時のような過ちは二度と繰り返さない」と強く心に決め、オフトレに取り組むようになった。
3回生のオフトレはあまり覚えてない。主将として先頭に立ち練習に取り組んでいたはずだが、記憶を呼び起こすことができない……。ただ言えることとして、「2回生の全関西と同じ轍は踏まない」という思いを一日たりとも忘れたことはなかった。あの日を決して忘れず、来るシーズンに強くなって還るためにトレーニングした。毎日のように舞い込んでくる(というか自分で入れたものだが)バイトと就活にも取り組みつつ、ヒマさえあればYouTubeや自らの動画フォルダで他者と自分の滑りを比較したり、少しの時間でローラーや、そうでなくてもエアーでフォームを確認したり。日々の練習で感じた、あるいは指摘された課題点に対し改善に向けた意識や身体の動かし方を考え、実践する。それによって得られた感触と実際の動きを撮影された動画によって照合し、新たな課題点を発見しては再び改善へ動く。。。3回生となり、主将として部の先頭に立ち結果を出さないといけないと自らにプレッシャーをかけていた。それが自らの外に漏れ出ていた(と自覚している)こともあり、この1年はかなりカリカリしていた。後々、この1年間を当時の1回生に聞くと「岩瀬さんは熱かった。ただその熱さが少しオーバーになっていた時期もあった。」とか「最初は話しかけたら何を言われるか分からないほど近づきづらかった」と言われた。かなり反省している。結果を追い求める一選手としての立場と、チームを俯瞰し束ねる主将としての立場、両者をバランス良く立てることは、僕にとって少なくともこの1年間では難しかったのだった。その点、同期や先輩方には様々助けられた。多様な人間の集合体である部活という組織が、多彩な人間性をもつ人たちによって誰か一人に頼りきりになるのではなく支えられ、なんとか1年間を完走することができた。記録は出ないが、実はどのレースよりも長く、考えることが多かったのがこの「主将としての1年間」というレースだったのかもしれない。
プレイヤーとマネジメントの両立に悩みながら突入したシーズンは、いま振り返ると4年間におけるターニングポイントだった。シーズン最序盤から感覚と実際の動きが一致し、自分のやりたかった動きが実現できるようになっていた。それは結果にも表れ、目に見える形で成長を実感することができた。「2回生の時のような過ちは二度と繰り返さない」。前年シーズン後に心に決めた思いを持ち続け、トレーニングに取り組んできた1年間が決して無駄ではなかったと思え、何だか報われた気分になった。同時に、自らが先頭に立ち結果を出すということが部員を鼓舞する手段であると認識し、自分はそれによって阪大スキー部に貢献するのだという一種の居場所を見つけられたのだった。主将を務めてきた諸先輩方のように、言葉が卓越するような人ではなかった。気持ちだけでなく、実のある言葉をもってチームをまとめる、そういう主将でありたいと思っていたが、ついになれなかった。その代わりと言ってはおこがましいが、日頃の姿勢やシーズン中の結果によって自分という人物を他に示し、それによって阪大スキー部という組織を引っ張ることができたのではないかと思っている。
4回生の1年間は比較的自由にさせてもらった。前年度の反省から、下回生に目を配り、技術的な指導をする時間を多く確保しようと心がけた。本来であれば3回生の幹部代から行うべきことであったのだろうが、結果を出すことに執着しすぎる余り、後輩たちに技術的に教えるということが疎かになっていたことを反省した。従って、自分なりにこれまで先輩方や服部さんから教えられてきたことを解釈し、各人の滑りに当てはめた上で助言する試みを自主的に始めた。しかしこれがなかなか難しかった。自分自身にはスッと入ってきたような感覚も、他の人にはハマらない。逆に、自身では違和感があり消化できなかった感覚がハマることもあった。その人にとっての最適を探し出すことがこんなにも難しいことなのか、普段自分が滑っている感覚を動きの中で言語化して捉えることがこんなにも難しいことなのかと、遅ればせながら気づいた。同時に、自分にとってハマる感覚を植え付けてくれた先輩方や服部さんの「教える技術」の高さを改めて実感した。結局のところ、ただの自己満足で終わってしまったような気がする。将来に渡る課題である。
↑4回生。白馬。コロナがなければもっと早く白馬で合宿したかった…。
ラストシーズンはたっぷりと過ごした。旭岳から名寄、野沢、大山、飯山、八幡平、鹿角、妙高、、、転々としつつ、レースに出た。3回生の時よりも明らかに実力を伸ばせていることが素直に嬉しかった。同時に、それでも遥かに埋まらないトップ選手の高い壁をひしひしと感じた。競技経験の差は歴然、フィジカル・テクニック共に及ぶべくもない。それでも何とか食らいつこうとした。彼らからすれば歯牙にもかけないような存在だろうが、何か学べることはないか。見て、感じて、自分に落とし込もうとした。インカレのスケーティングで目標としていたSAJポイント200を切れた時、その努力が結実したような気がした。
紛れもなくスキー部でのハイライトとなるインカレのリレー、そのメンバーであったことは心から誇りに思える。綿密な準備と当日の滑り、そして何より共にリレーを組むメンバーへの信頼がかけ合わさり、最高の結果を出すことができた。4年生3人(???)であることから、このレースでは良い結果を出したいと照準を合わせていただけに感慨もひとしおだった。今だから言えることだが、インカレを終えた時点で半ば燃え尽きてしまった。それだけこのリレーに懸けていた。詳細は先日道坂さんがアップしたブログへ。
最後の大会である全関西。個人戦を終えて最終日のリレーを残すのみとなり、リレーの戦略を練っていたとき、小林が話していた。「濱田さんや岩瀬さんと一緒に走れるのはこれが最初で最後なので、頑張ります」。単純な言葉だったが、自分がラストレースであると共に、後輩たちにとって自分が重要な存在であることを認識した。そのとき、明日で引退という事実が急に現実味をもった形として表れた。
リレー当日、特段変わったことはなかった。あるとすれば4走なのに朝7時半には出発していたことくらいであった。1、2走の下回生のグリップテストをするためであったが、思えばこの4年間、リレーでクラシカルを走ったのは濱田さんと自分(あと福井さん)だけだった。それに気づいて思わず笑ってしまったとともに、卒業による引退とはいえ下回生に託すという意味でさすがに潮時だとも思った。(繰り上げだが)3人からリレーされ、出走した。走り出すとラストレースであることなど全く忘れ、いつもと同じようにしんどい顔をして滑っていた(この4年間、多くの人に「岩瀬はレース中笑っている」と言われたが、一度として笑えるシチュエーションはなかった。とにもかくにもしんどい)。しかし最後、ゴール前の直線でふと「これで最後か」と口に出した。しんどいながらも、アンカーとして、阪大スキー部のシーズンの締めとして、そして自分自身の学生競技生活の終わりが目の前にあった。全てにケリをつけようと、テレマークを入れてゴールした。後で動画を見ると思ったよりキレイに決まっていたので個人的には満足している。ゴール後、止まって濱田さんや福井さんに声をかけられると、4年間に見てきた色々な景色や思い出が押し寄せ、感極まってしまった。視線を上げると、かつてその頂にも立った妙高山が大きく、雲一つ無い青空に映えてそびえていた。
…というのがザー―――っと4年間を振り返ったところです。長すぎます。読み手を全く考えていない。1回生の方が記憶鮮明ですね。新鮮だったんでしょう。
スキーに関して言うと、3回生の冬場くらいからようやく思い描いていた動きができるようになってきたように思えます。そして4回生のシーズンでその動きをレースで実践し、磨く段階にようやく入ったところでの引退。時間が足りなかったかと言われれば否定できませんが、一通りをさらった上でここから磨こうという時点でガチガチの競技から離れるのは一種ちょうど良い按配のかもしれません。社会に出、スキーのことだけを考えるわけにはいかない中で向き合ってみるのも悪くないのではないかと思います。つかず離れずの距離感からクロスカントリースキーに向き合うことで、学生時代には得られなかった新たな発見をしてみたいなあと、今のところは考えています。
スキーという競技を通じて学んだのは、端的に言うと「準備の大切さ」と「思考の持ちよう」です。
1つ目の「準備の大切さ」についてですが、国体に出場した際、大阪府のスタッフの方がされていたお話が印象に残っています。「レースはもちろん、日々の練習においても日に陰に『ここまでやるか』というところまで自分のやれることをして、初めて準備と言える。自分にできる100%の準備をした上で不安無く臨むことで力を出し切れるんだと思う。我々も100%の準備をするので、選手の皆さんもあなたたちの100%の準備をしてレースに臨んでもらいたい」。頭では分かっていても、実際に行動として起こしているか、そのとき自問しました。考えてみれば、国体のサポート体制は充実していました。選手が全力を発揮できるよう、スタッフの方々が奔走している姿は確かに強く記憶に残っています。阪大スキー部において100%の準備は成されているか。思い返すと1年前、インカレのクラシカルではグリップを外し満足のいく結果とはなりませんでした。あのときの準備は100%だったか。そうではないと思った瞬間、同じ舞台で100%の準備をして臨むことを決心しました。詳しくは書きませんが、少なくとも自分の過ごした4年間では一番と言える程に入念な準備をしました。人それぞれレースの感触には差があるものの、準備の質が最も如実に表れるであろうクラシカルにおいて阪大チーム全体で100%の準備ができたことに独り、密かな達成感を感じていました。勝負は時の運という言葉もありますが、どれだけ準備をしてきたかによって不確定要素たる運を極力排除し、自分が勝てる可能性を引き上げることはできるはずです。その準備は大変でしょうが、無駄にはならないことでしょう。ささやかなお願いですが、後輩たちには人数の許す範囲で今年の準備体制を継続してもらいたい。労力は確かにかかりますが、そこまでしてやっと準備と呼べるのも事実だし、最大限の滑りができる可能性だって上がるのだから。
2つ目の「思考の持ちよう」について。
自分より前を行く選手に対していつも「なにくそ」という思いで食らいついていました。これが原動力だったのではないかと思います。いくら言葉を並び立てて技術を深めたところで、根本に追いつけ、追い越せの気持ちがなければただのキレイな形をした人です。速くゴールするという至極単純なこと、そのためには例え未完成であろうと、なるたけ全力を尽くして自分の最速でゴールに目指していく。「最終的には気持ち」というのはもはや古い表現なのかもしれませんが、気持ちがあってこその競技スキーではないでしょうか。「どうせやるなら100%でやらなきゃ損じゃない?」数年前、当時九大の高井さんがブログでこんなことを書いていた記憶があります(元のブログは消えてしまったようだ)。当時2回生になろうとしていた自分にとってこの一文は刺さりました。日常のあらゆる場面でスキーを考え、雪上で実践できるようにオフトレから向き合う。そして雪上でも、レースを会心のものとできるように、またそうでなくとも全力で取り組んだと言えるようにその時々の全力を尽くす。源泉となるのはやはり気持ちでした。押しつけるわけではありませんが、後輩たちも何か、自分が競技スキーに取り組む動力源となる気持ちをしっかりと持っておくことでいわば「幹」の部分が固まって日々を過ごしていけるのではないでしょうか。
競技スキー、特にクロカンについての持論ですが、僕はパズルを完成させるようなものだと考えています。いつピースが揃う、絵を描ける状態になるかは人それぞれ。しかし、4年の競技生活の中で、1つ何か描くことができればそれは部活に取り組み続けることの意義の一つになるでしょうし、4年間終えた際、また今後の道においても心の拠り所になるでしょう。そのためにも、自分の「幹」をもって、部活に取り組んでほしいと思っています。
また考えるということについては、振り返るとこの4年間ひたすらに「仮説→実験→反省→仮説→…」のプロセスを踏んでいたように思います。自分が改善しなければならないことは何なのか、それを改善するためにやることは何なのか、それをするために持つべき意識は何なのか、、、と詰めていくと、意識と行動が一つの線で結びつき、ひとまず道筋が見える。ただ、それが唯一の正しい道とは限らず、その時々により変わる。最初から最短ルートを通れるのは稀、むしろ様々に回り道してあれこれと考えることが自分の引き出しを増やすことになり、自分だけでなく他の人と議論するときの考えの種ともなる。その遠回りした、ストックした引き出しの数々が、思いも寄らぬところで自分の気づき、他人の気づきを呼ぶこともある。明確な答えのない中で探究していく、その心持ちがある限り停滞はあれど後退はしないと思います。闇雲に、ガムシャラにと言うと確かに聞こえは良いですが、いずれどうにもならないところまで達してしまうことでしょう。一方で、思考を巡らせることに天井はありません。一種思い切りが必要な場面もこの競技にはあるでしょう。僕も「エイヤッ!」でたまたまうまくハマったことはありますが、それは単なる思い切りではなく、その思い切りを可能にさせるだけの思考に基礎づけられた上で使えたカードだったと思います。3年前のスローガンは「感じるな、考えろ。」でしたが、いま綴っている内容で言うと「考えろ。その上で感じろ。」といったところでしょうか。いずれにせよ、考える手間を惜しまず、頭を使って競技と向き合ってもらえればという考えです。
最後に、ともに現役時代を過ごした先輩、後輩、同期に一言(?)ずつ
他大学の皆さん
「皆さん」と一括りにしてしまいすみません。一人ひとり書きたいですが、漏れがあるとお叱りを受けそうなのでこれで勘弁して下さい。憧れ、尊敬し、思いを交錯させ、良きライバルとして、そして良き同志として、競技スキーという世界の中で出会えたことを幸運に思います。僕の大学4年間は皆さんあっての濃密な時間でした。日本中に散らばりながらも、互いの存在を意識しつつ高め合える。そんな皆さんと選手として会えなくなるのは寂しいですが、また何かの形で(雪上に限らず)巡りあい、様々に交流できることを心から楽しみにしています。
甲南大学スキー部の面々へ
競技スキー未経験者が殆どの阪大スキー部にとって、その存在は人数以上に貴重でした。特に4年間を共に過ごしたりょーちゃん、久保田の同期2人は阪大以上に阪大・甲南スキー部のことを考え、意見を交わし、より良い連合体にしようと動いていた姿に同期ながら尊敬の念を抱きました。こうして築かれた関係が今後も続いてくれることを願っています。本当にありがとう。
福井さん
1回生の九大戦でそのスピードに衝撃を受けてから4年。やっと同じステージに上がることができた気がします。合宿の度に「なぜここにいるんだ?」と思ったものですが、パフォーマンスは現役と変わらず(というかむしろ動けてる?)、OBは皆動けるものだという先入観を植え付けられました。僕はなれないです。今度トレランしましょう。
野田さん
野田さんに引き寄せられるようにスキー部に入った僕は、4年間でかけがえのない経験をしました。心から感謝しています。民度の低い話も、真剣な話も、野田さんと話している時は楽しかったです。また飲みながらクダ巻きましょう。
真子さん
たくろーさん
似田さん
頭の回転が速すぎてマジでCPU搭載してると思っていました。というか今でも思っています。あれだけ目配りのできる主将を目指しましたが、無理でした。推しチームの応援に心置きなく行ってください。
五藤さん
石橋では大変お世話になりました。これからも大変お世話になります。
柘植さん
イジってしまった(斜線なし)。初めての淀川で丁寧に基礎から教えてもらったことをよく覚えています。あれから4年、色々な意味で変わらない柘植さんと卒業式で写真撮らなかったことを後悔してなくもないです
恒川さん
優しさを体現したかのような先輩でした。なぜあれだけ懐が深いのか、僕には結局分かりませんでしたが、ただ一つ言えるのはそれを深く尊敬していることです。
道坂さん
まさか「3回生」だった道坂さんと同じ年に卒業するとは…。それでも、道坂さんがいてくれたおかげで幾つも夢を見ることができました。そしてその夢は、現実のものとなりました。最終年にライバルとして、そして同期()として、競えたことを光栄に思います。
濱田さん
まさか「2回生」だった濱田さんと(略)。本当に同期のような存在でした。競技に打ち込みながらも、気遣いができて、少し残念で。清濁併せのむ濱田さんの人間くささが好きでした。共に引退できることを誇りに思います。
大佐古さん
牌とジョッキは必需品!「言葉」を持っていた主将でした。尊敬しています。もう一度言いますが、牌とジョッキは必需品です。
小谷さん
すみません。よくわかりません。ただ、幹部になってからの変貌っぷりに正直良い意味で驚きました。
村山さん
クロカンに関して最も熱を入れて議論したかもしれません。インカレの帰り、鹿角から盛岡へ向かうバスの中で語したことを今でも覚えています。ケガを乗り越えた者同士、共有できる部分がありました。深く考えること、その上で実践に移すことの大切さを感じ取りました。
五十嵐
ほんっとに厳しいことを何度も言ってしまった。内心かなり頭にきていたと思う。許してほしいなどとは言わない。ただ、この1年で五十嵐なりに考えを持って阪大ノルディックチームを動かしていこうという意志は確かに伝わってきた。自信をもって。リレー走れよ。
仙石
飲んでも飲まれるな。スキー滑っても滑らされるな。
平木
留年には2つのタイプがいる。1留か、それ以外か。1「流」のジャンパーになれるチャンスは今年だけ。ストレートに進んだらまずなれない。君がポイントゲッターだ。
本間
この1年はもどかしかっただろう。そのもどかしさ、スキーができないことに対しての苦悩たるや想像もつかない。それでも取り組んできたこと、先が見えない中でもがいていたことが報われる日を願っている。おつかれさま。
増村
用水路事件について詳しく聞くの忘れてた。芸術点高めだったらしいね。今度やり方教えて下さい。4年目の雪上は感覚変わるよ。
村上
スキーかそうでないか、手段は問わない。村上なりに貢献してくれ。以上。
安野
いっちゃんやばいヤツ。多分。知らんけど。今度バリエーション教えて下さい。この1年で一番成長したと思う。
すみれ
煽られたので特になし。クロカン女子を頼む。
小林
ここまで4人手短だった(手抜きじゃないよ)。端的に書こうとしたわ。なかなか結果がついてこずにどかしかっただろうと思う。それだけに、全関西のリレーを走ったのは嬉しかったろうし、自分も嬉しかった。競争に勝って、またあの舞台に立とう。
武村
スキー競技の熱さ、面白さを感じてもらえたならこれ以上のことはない。すみれと共存共栄でがんば。
森下
あと一つのきっかけで爆発しそう。ぶちかませダイナマイト。主将は君だ。「自分」をもって。
安田学生
舞い上がれ。ジャンプアップできると信じている。後はやるだけ。
こいたつ
スキーも勉強も根本は一緒だぞ。考えるんだ。
大野
1年目からレースに出た、その経験とそこから得られた反省を来季に繋げて。1年前とは違う、レベルアップした大野に会えることを期待してる。
下野
WBC一緒に見られてよかった~、侍ジャパン最高だわ~、大谷エグいやろ…。おっと、下野ではなく下野家の記憶を語ってしまった。体力はある、後はそれを活かせるだけの技術を身につければ、先輩だって超えられるんだ。
しゅーごろー
有り余るセンスを感じる。雪上に入れる期間は少なかっただろうけど、ポテンシャルはまだまだ大きな塊で埋まってる。掘り起こせ。めげずにやれば発掘できる。そこが飛躍の時だ。
本同
1年目で右も左も分からないのにいきなり斜面を下に降りろとか方向感覚バグってもしゃーないわ。これでクロカンだったら上に登れだから、まだ3方向でよかった。やる気の塊、これからもその向上心でレベルアップしてくれ。
百音
大学生活後半はスキーする機会がなかなか巡ってこなかったね。それでも、オフトレでは変わらずイーヤーサーサーしてたし、研究もなんくるないさーって感じだったよね(あくまで主観です)。豊中吹田二拠点研究生活漢字多めでがんば。
竣太
スキー部で一番長くつるんだな。突拍子もないことばっかするからついて行くのが大変だったわ。でもそれが楽しかった。アフリカで最強になって帰ってこい。
北橋
最後までunreliableな面もあったけど、幹部代の1年間でreliableになったと思う。99年度生まれ、あざした。
山田
主務が山田でよかった。後は知らん、伝われ。
山根
2回生のシーズン前から入って、スタートラインが後ろだったにも関わらずそれを感じさせずにクロカンに向き合い、楽しんでいる姿に「どえらいメンタルしてるな」と思ってた。春から社会人同期、がんばろな。
岡本
最後は絶対に岡本に書こうと決めていた。4年間で一番同じ時間を過ごしたな。クロカンの同期として、日々の練習も合宿も。2回生のシーズンが終わって心折れそうな時、あなたが結果を出し、なおも上を向いて何ができるか考えていた姿に救われた。自分がこんなとこで折れるわけにはいかないと思った。男女の違いこそあれ、共に高め合い続けることができたことが結果的に3回生以降に繋がったと思う。競技以外にもたわいもない雑談や相談事、とりあえず話しておけば大丈夫だろうってことは話してた。言い争いも数えきれないほどした。ただ、それだけ話せる人が同期にいたことが自分にとってはこの上なく嬉しかった。ありがとう以上の言葉があればかけたいくらい、ありがとう。
ここ10年くらいでこれだけ多くの部員(甲南大学5人を含め、31人)がいたことはありません。その中で引退できること、とても恵まれています。4月からは僕の知らない新入生が入り、また新たな風が吹くことでしょう。春の麗らかな風に吹かれ、咲き誇った桜の花は散り、やがて青々とした若葉が映える――。
未来を託して、僕は阪大スキー部を卒業します。
この部活に出会えて、心から幸せでした。
本当の最後に、大学からクロスカントリースキーを始め、何も分からない僕をここまで指導して下さった服部さんはじめコーチの方々、そして何不自由なく僕の活動を後押しし、見守ってくれた両親をはじめ親類の方々、心から感謝しています。
ありがとうございました。
大阪大学体育会スキー部令和5年卒 岩瀬聡介