もうひとつの物語・5月の風 | 開運童子のブログ

もうひとつの物語・5月の風

初夏という季節になると頬をかすめる風がとても心地よい。日差しは強いがカラッとした暑さである。私はいつものようにその珈琲ショップに入っていった。私は2週間ほど珈琲ショップに顔を出す事ができないでいたのである。こんなに間をあけるのはおそらく初めての事だったと私は気づいていた。私は人混みから逃れるように駅ビルに入り エスカレーターを上がると珈琲ショップの入口に立った。空いているようで席は空いていた。入口からカウンターまで行くのにそんなに時間はかからなかった。女性の店長さんがこちらを見て会釈をすると私も会釈を返した。視線を合せるが言葉は交わさなかった。

 席に座って珈琲カップを手にすると一口含んだ珈琲を舌の上で味を確かめた。その時の私は彼女の事が脳裏を過ぎるのを止める事が出来なかった。あれからひと月以上が経っていた。彼女は南の国での生活に慣れてきた頃だろうと私は感じていた。彼女の事だからきっと元気に過ごしているはずである。そう思って私が大きく息を吸い込むと人影がそばに近づいて来たのに気づいた。

「少しご無沙汰でしたね。」

店長さんが言った。

「仕事が詰まっていて来られなかったよ。」

私は短く言うと

「彼女が辞めたからもういらしてくれなくなるのではないかと思っていました。」

店長さんは言った。

「そんな事はないよ。」

私が言うと

「いらしてくださってよかった。」

店長さんが言うと私は店長さんを見た。視線が合って数秒の時間が流れた。

「彼女が辞めたからこそ僕はこの店に来なければいけないのですよ。」

私が言うと店長さんは考えるように目を大きく動かせてから

「どうしてですか?」

と言った。店長さんが解らないのも無理はなかった。

「いつの日か彼女が思い出という忘れ物を取りに来た時にそれを渡すのは僕だからね。」

私が言うと店長さんは微笑んでいた。

店にお客が入ってきてざわついてくると

「失礼します。」

店長さんは言ってカウンターへと戻って行った。私は店内を見回して彼女の顔を思い浮かべていた。彼女のあとに入った女性の店員さんと目が合うと会釈をしてくれた。私も会釈を返して店員さんと視線を合わせていた。インドネシアの暑さは日本以上だと聞いた。そんな熱い太陽の下で彼女は日本を遠くから見ているかもしれない。

「失礼します。」

若い女性が言って私を見た。

「どうぞ!」

私も言って若い女性を見ると彼女は私の横に荷物を置いて座っていた。四つの季節が過ぎる頃には今が過去になり未来が今になるはずである。今も思い出のひとつとして心のアルバムにしまっている彼女との思い出は私に少しの後悔と少しの安らぎと淡い過去をくれた。今はそれでいいと思っている。いつまでも過去を見ていてはいけないがみきは過去の延長でもある。

「これは彼女から来たメッセージです。」

気付かぬうちに私の横に戻って来た店長さんが言って小さな封筒を差し出してくれた。

「彼女から僕にメッセージですか?」

私は言うとその封筒を受取っていた。

「封筒の中身はあとで呼んでください。」

店長さんが言うと私はその封筒をしまっていた。珈琲が飲み終わる頃に私はいつもの日常に戻っていた。つかの間の時間が心を振動させて思い出へと誘ってくれたが時間が過ぎて現実へと戻してくれていた。


「彼女が入れた珈琲と私が入れた珈琲とどちらがおいしいですか?」

店長さんは言った。難しい質問に私は答えを探して言葉を選んでいた。

「舌から伝わる感触なら店長さんです。」

私が言うと

「それは嬉しいわ」

店長さんは静かに微笑んでくれた。

「プラスアルファーの何かがあるのが彼女です。」

私は言ったがはっきりとは解らない何かがそこにあった。

「ごちそうさま。」

私が言うと

「ありがとうございます。」

店長さんが言っても新人の店員さんも私に笑顔を向けてくれた。

「来週もまた来ます。」

私は言うと背中を向けて店の外へ出ていた。封筒の中身はそれとなく解っていた。南の国から来た封筒の中身には独特の香りがあった。