雨のあとに虹 その114
「夢だったのか。」
俊之にしては珍しく搾り出すような声で言った。いつもの響くような声ではなかった。俊之は珍しく全身に汗をかいた。全身に虚脱感さえある。俊之は全身に熱いシャワーを浴びていた。まるで過去の呪縛を取払うように全身に強くあてた。俊之は中絶されるところを祖父の説得によりこの世に生を受けたのである。父は定職を持たずに怠け者であるため家計は決して裕福ではなかった。母は俊之が生まれた事により資産家の御曹司との縁談が破断していた。俊之は施設に預けられる可能性もあったのだが両親の手で育てられたのは不幸中の幸いであった。そんな俊之に追討ちをかけるように親戚も両親の死により縁が切れていった。俊之は妹夫妻にも絶縁されている。辛うじて姪の千晴だけが時々俊之に会いに来るようになっていた。そんな天涯孤独な俊之であったが仲間には大変恵まれていた。それが矢島であり、天門であり、春香であり、翔太であり、育子である。太田や山本もある意味では温かく俊之を見守っていると言える。生命はいずれ寿命がきて終わるものである。それならばその寿命がくるまでは精一杯生きるのが権利であるとともに義務だと俊之は考えていた。自分は本来生まれる事がなかったのを何かの力でこの世に生まれ出されたのである。それならばその与えられた人生を精一杯生きようと俊之は思っていた。
携帯が鳴って俊之出た。
「高村さん。」
未来は言った。
「未来さん!」
俊之は言った。
「今日は少しでいいから時間ある?」
元気よく未来が言った。
「ありますよ。」
俊之が言うと未来は
「それならどこかで会おうよ!」
と言った。
「どこが便利かな?」
俊之が言うと
「都心まで初詣に行くから一緒に珈琲でもどう?」
未来は言った。未来とはイブに会ってからは一度電話をしただけであった。
「未来さんが電車に乗る時に電話をくれればあわせますよ。」
俊之は明るく言った。
「昨日はどうだった?」
ひとみは小百合に言った。
「思ったより忙しかったですよ。」
小百合は言った。
「堀川さんがきちんと対応してくれたでしょ?」
ひとみが言うと
「すっかり頼りきりでした。」
小百合は言った。
「だいたい想像がつくわよ。」
ひとみが言うと
「私はパニックでしたからね。」
小百合は言った
「彼女がいなかったら私はゆっくり休めなかったわね。」
ひとみは言いながら思いをめぐらした。元日に俊之と久美子に嫌な思いをさせてしまった。自分がとった行動は軽率だった。俊之にナイフを向けて刺そうとした事は犯罪である。あんな行動をとった自分を反省しても過去は変えられるものではない。榊原から聞いていた内容は事実と違う事に気づくのが遅すぎたようである。榊原が自分に嘘をついている理由を考えても答えがすぐには見つからないのである。ひとみもこの年齢になるまでいろいろな人間を見て来ていた。俊之はそんなに悪い男ではないのがひとみに心のどこかで解っていた。ひとみは麗子のためにも憎むべき人間がほしかった。その憎むべき人間は誰でもよかった。それが偶然に俊之だったとも言えた。今は俊之に悪い事をしたと反省をするだけであるがいずれ何かの罪滅ぼしが必要だとひとみが考えていた。ひとつだけ救いがあるとすれば近所の主婦に頼んでわざと久美子を俊之に向けて飛ばした事は結果的に良かったと言えた。
「どうかしましたか?」
小百合に言われて
「何でもないわ。」
ひとみは言ったあとに頭を振った。
育子は早めに実家を出て電車に乗っていた。寮に戻るのに急ぐ事はなかった。予定より早く戻って来る明確な理由はなかった。育子は駅のホームで電車に乗る時も都心の方をじっと見たままであった。こんな気持ちになるのは初めてであった。育子はこれも何かの霊感だと思って窓外の景色を見ていた。育子が乗った電車は徐々にスピードを上げていった。