雨のあとに虹 その1
「ご注文は何になさいますか?」
久美子が言うと俊之は
「ミートソースとブレンド珈琲をお願いします。」
と言った。
「かしこまりました。」
と久美子が言って作業を始めた。このわずかな時間がいつもの俊之には長く感じられたのであるが今日は意外にも短く感じていた。久美子が珈琲を置いた。
「ありがとう。」
と俊之が言って会計をすませた。
「ミートソースは後ほどお席にお届け致します。」
久美子は笑顔で言い俊之はうなずいた。俊之は空いている席に座って一息つくと少しだけリラックスできた。俊之は店内を見回して落着いた雰囲気に心を和ませた。そして少しずつ頭脳が回転を始めた。俊之は
「矢島のあらたまった話とは何だろうか?」
と呟いた。俊之は親友の矢島正一から久しぶりに呼び出しを受けて少しだけ緊張を覚えたのだ。矢島は高校時代の親友である。たまには落着いた話をするのも必要だろうと思ったのであるがあらためての話とは始めて事である。俊之の頭脳はさらに回転を速めていた。その時
「お待たせ致しました。」
と言いながら久美子がミートソースを乗せたトレイをもって俊之のところへ来た。久美子が俊之の前にトレイを置こうとした時である。客のひとりが急に手を動かして久美子を突飛ばしたのである。俊之はその突飛ばした手を一瞬だけ見た。久美子は身体のバランスを崩さざるを得なかった。やがて大きな音が店内に響いてミートソースを乗せた皿はトレイから俊之の膝を通り床に落ちた。飲みかけの珈琲もこぼれ落ち俊之のズボンはミートソースと珈琲ですぐに汚れてしまった。
「すみません。」
久美子は言った。
「大丈夫ですか?」
俊之は言って久美子を見た。
「すぐに新しいものをお持ちします。」
久美子が言うと
「僕は大丈夫だよ。」
俊之は言った。
「珈琲もすぐにお持ちします。」
久美子はそこまで言うのがやっとだった。急に誰かに突飛ばされたのであるからひとたまりもなかった。
「僕はかまわないけど怪我をしなかったですか?」
俊之が優しく久美子に声をかけた。不可抗力とは言え久美子がかわいそうになったのである。久美子は
「私は大丈夫です。」
と言って後片付けをしていた。
「気にしなくて良いからね。」
俊之は久美子を見て言った。
「すみません。」
と久美子が言って後片付けをしていると久美子の後ろにあるカウンターからひとみがやって来た。
「お客様大変失礼致しました。」
ひとみは店長として丁寧な対応で俊之に接した。
「僕は大丈夫です。」
と言った俊之のズボンは汚れているのがひとみにもはっきり見えたのである。
「珈琲とミートソースは新しいものをすぐに用意させます。」
ひとみが言うと
「解りました。」
俊之は言った。
「後ほど私のところにお立ち寄りください。」
とひとみが言うと俊之は
「気にしないでください。」
と言った。俊之の言葉を聞きながら久美子は床を片付けていた。急な事で久美子は慌てていた。少し悲しい気持ちとはこういう時の悔しさややるせなさを言うのだろうか?久美子は俊之を見た。そして
「すみません。」
と久美子はもう一度謝った。
「もう大丈夫だからね。」
俊之が言った。俊之の優しい意言葉が久美子を救ったのである。
パスタを食べ終えて珈琲を飲干すと、かなりの時間が過ぎていた。アクシデントがあったのだからそれは仕方がない事でもあるが俊之は久美子の事が気になっていた。こういう時には多少なりとも気分が落ち込むものである。俊之のズボンは子供が食べ物をこぼしたように汚れていたが、それはクリーニングすればすむのだ。俊之は席を立ってトレイをカウンターの横に置いた。
「先ほどは大変申し訳ありませんでした。」
ひとみが言うと俊之は
「もう済んだ事ですよ。」
と言った。その間にひとみは俊之の胸ポケットに封筒をそっと入れた。俊之は中身を悟って
「僕はブランドを着けているわけでなないから。」
と言って封筒を返そうとしたがひとみは
「いいえ!こちらの不注意ですから。」
と言って引かないのである。そこにカウンターをから出て来た久美子も
「先ほどはすみませんでした。」
と言って俊之の目を見た。俊之も久美子と視線を合わせていた。
「気にしないでください。」
と俊之が言うと久美子が
「はい。」
と言った。俊之は久美子がつけている名札を見ながら
「堀川久美子さん。」
と久美子の名前を言った。久美子はすぐに
「はい!堀川久美子です。」
と自分の名前を言った。
「失礼ですけど差し支えがなければお名前を教えてください。」
とひとみが言うと俊之は仕事の癖から名刺を取出して
「高村俊之です。」
と言ってそばにいる久美子にその名刺を渡した。
「高村俊之さんですね。」
久美子は呟くように俊之の名前を復唱した。
次にひとみにも俊之は
「高村俊之です。」
と言って名刺を渡した。
「高村俊之さんですね。」
ひとみが俊之の名刺を見て言ったが表情は冷たかったのである。
俊之は急ぐようにドレンドカフェを出のを久美子とひとみは見送っていた。俊之の姿がエスカレーターの下に消えるとひとみは
「堀川さん。」
ひとみが言った。
「はい。」
久美子は言ってひとみの顔を見た。
「高村さんって何歳くらいに見えた?」
ひとみは言った。
「よく解からないけど30代の後半だと思いますよ。」
と久美子が言った。
「これから高村さんが店に来たらいろいろ話しかけてあげてくれる?」
とひとみが以外な事を言った。
久美子は先ほど目を合わせた時から高村俊之という男に興味を持ったので
「いいですよ。」
と言った。
「それではお願いね。」
とひとみが言った。
「高村さんは自分を出し切れない性格みたいですね。」
と久美子が言うのをひとみはしっかり耳にしていた。