今日は深い気付きがあったので
書き留めておこう。

足掛け三年ほどアクセスバーズをやっていて

施術の素晴らしさはわかる、、のだけど、いまいち、、テキストの内容やファシリテーターによって様々な解釈なのが、納得いかなかった。

なんとなく、ぼかされているようだし、、

あの人はこう言ってたけど、、この人はそう言う

みたいな、、


腑に落ちないまま、いつも講座修了。


先々月にお世話になったファシリテーターさんにこの疑問をぶつけてみたのだけど、

ご自分もわからないことが多いいのだとおっしゃっていた、、

バーズの世界では長くやられてる方なので、

わからないと、言っていただいたことが逆に信頼できた

と、いうのは、

その方曰く

バーズに、こうだという答えはなくて

断定することで制限をかけてしまうためだと言っておられた、、

解釈は無限なのだと。

ふむふむ、、、

と、言葉ではわかっても、いまいちわからなかったのだけど、、

今日、、

そういうことか、、と、思った。


バーズでは全世界共通のテキストを使っているのだけど、同じ講座でもファシリテーターさんによって内容の受け取るものが違う。

面白いのは

長くやられた、ある意味、ベテランさんの方たちほど

テキストの棒読みなのだ、、

あまり多くの説明をしない。

初めて受けると、物足りなさを感じるかもしれない。


肝心なテキストも、、

何言ってるかわからなーい、、びっくり


私が初めて受けたときは、なんとか理解しようと、家に帰ってから何十回と読んだけど


わからーん、、って感じだった、、

のに、

最近は、、

ああ、、こういうことかな、、と、感じる事ができるようになった。


何が言いたいかと言うと

同じことを言っていても、受け取り手によって解釈は千差万別であるということ、、

受け取ったものを、どうするかは、、その人によるし、、それこそが、、

自由そのものなのだ


何が書かれているかは重要ではない、、

先の理解は必要ない


それが、、腑に落ちた


なぜ、そう思ったかと言うと


私はレイキについて考えていたことは

レイキが怪しいものではなく医療として広く受け入れられるためには、きちんとしたカリキュラムや内容が必要だと思っていた。


のだけど、、

今日、、あれ??、、と思った


私の祖母はレイキをレイキとは知らず患者さんに施していたし、ハワイのロミロミももとはレイキだと思う。


知識なんかなかったはず、、

必要なのは
経験からくる感覚とか、、いかに相手が治癒するか、、ということだけではないか、、

もしかしたら
学ぼうとするからかえって混乱するのでは、、?

大切なのは
学ぶのではなく、、実践ではないか、、


実践することで、それぞれに感覚が研ぎ澄まされ無限に広がるものなのだ



以前講座でレイキはなぜ口伝で伝えられ、書物として臼井先生は残さなかったのかと、質問したことがある。

その答えとして
最初の講師は、、ある程度の人を選んで密かに伝えられた、いわゆる門外不出だったと言っていた。

お二人目の講師は、口伝は日本人のやり方で昔は何でも口伝で伝えられたのだと言っていた。

そうか、、
どちらもあり得る、、と、思った。

のだけど、

もしかしたら、、臼井先生は

あえて、、書に残さなかったのではないか、、




たとえば、、聖書、、

聖書があるから、、キリスト教は分かれていったし、中には争いが生まれたと言われている。

同じ言葉でも言葉は解釈によって意味が変わる


あえて、、字にして残さなかったのではないか

だいたい、、レイキとは、形あるものではないし。


本来、流派なんか、、存在しないのだから。


それを、、この流派のこの学び、、みたいな
制限がどこからか生まれてきてしまった

誰も彼も、、ウチが正統とか言い出したり、笑


変なプライド、、?、が生まれたり、、


本来、自然で自由なものなはず、

型なんかないはず


レベルがどうの、、、というのは、関係ないはず


そう思わない、、?


老舗のある方が言っていた言葉で



伝統を継承していくには

時代に沿った新しいことを入れていくこと。


なぜか、そんな言葉が浮かんだ。