夫が亡くなって3ヶ月近く経ち、やっと気付いた事がある。

我が家の4人は、必ずしもパパの死が悲しいだけではないようだ。

複雑な様だ。

勿論、血を分けた親子であるし、可愛がってもらった事、愛されていた事、偉大な存在である事には変わりはない。


我が家は中学校の3年間、パパと息子2人、私と娘2人で別々に過ごしていた。


息子たちは、パパが頼りであった。そして、近くに住む義父母が頼りであった。

優しくしてもらっていたし、私がいなくて寂しがっていたことは理解していたが、パパが補ってくれているから大丈夫だと思っていた。


亡くなって、私がパパの事で泣いたり、褒めたり、感謝の気持ちを話したりしてきたのだが、必ず、息子たちも娘たちも無口になり、ゲーム、テレビ、携帯の世界に入ったりしていた。何も語らない。


悲しいから、触れない様に、何も考えなくていいようにしているのかな?と思っていた。


だから、未だに私は泣けない。



でも違った。



亡くなって間もない頃は、4人とも泣いて、悲しんでいた。
パパを誇りに思うなど話していた。


私の元に4人で住むようになり、私の父母と暮らすようになり緊張がほぐれ、本音を語るようになった。


パパを誉めなくなったのだ。
その上、パパの良くないところを4人で語るようになった。
驚いた。


中学3年間、パパは父親ではなかった、とTが言った。


感謝している部分は、勉強を教えてくれたこと、お弁当を作ってくれたこと、仕事の話をしてくれたこと。


他はどうでもよかったらしい。



3年間は、学校の友達がいたから楽しかっただけ。
家にいるのは嫌だったらしい。


2人は父性を感じる事が出来なかったと話す。


パパの実家は建設会社を営んでいる。
パパは一級建築士であった。
亡くなったのは51歳。
実際には会社の代表として切り盛りしていた。


亡くなった時の代表取締役社長は、夫の父である。
二級建築士であり、現在も社長である。
五年前に胃がんを患い、現役を退き、毎日会社の掃除をしたり、知り合いからのみの仕事を受けたりしていた。
でも、社長の肩書きは譲らなかった。
不思議に思っていたが、会社に携わっていない私が、とやかく言うことではないと思っていた。


パパと義父は親子であるが、ずっと会話はなく、亡くなるまでライバルであったのだ。

亡くなる前日と、前々日、続けて建前があった。
前々日パパ、前日は義父担当の建前だ。
どちらも済んだ次の日に亡くなった。



でも、亡くなる前日、つまり義父の建前の日、パパは体調が悪く会社を休んでいる。
義父は、ズル休みだと思っていたと言う。
仲良しではなかった訳だ。
負けたくない、息子に、だったのだ。





そんな環境で3年間過ごしたのだ。
そんな父子を見ていたのだ。
息子たちがパパを尊敬だけできる訳がない。


パパは自分の父親に認めてもらっていなかった訳だが、息子たちの事も認めたりしていなかったのだろうか?

多分そうだ。

息子Oは国立大附属高校に入学した。
受験中、途中からパパの元を離れ、義実家に行き勉強した。そして合格した。


パパは、受験中ギターを弾いていた。
私が怒ると、プチ逆ギレした。


Tは、2人でパパの元を離れるわけにいかないと考え、残ったが、1人で留守番をしたり寂しかったようだ。未だに毎日私に抱きついてくる。そんな子ではなかったのだが。


義父母は、息子たちにお小遣い、送り迎え、お世話などなんでもしてくれていた。
ただ、あれしろこれしろ、これはダメあれはダメなど口を出していた。
マインドコントロールだ。


やっととけた訳だ。


商売家族なので、家族よりお付き合い、勉強より仕事であったようだ。


パパは葬儀で、650人の方に送っていただいた。


仕事先では良い人であったが、息子たちには良い人ではいてくれてなかったようだ。
大事な中学生時代。

私は気付いてやれなかった。

過去は戻らない。
パパ1人を責めるわけにもいかない。


私は母1人だが、3年間深くて大きな愛を注いでやりたい。
ずっと、良い母でいたいと思っていたが、私が楽しい人生、私がしたいことをしている人生、私が、嫌なことは嫌、出来ないことはできないと言える人生を実行して幸せなところを見せていきたい。

人生は楽しいよ、と教えてやりたい。
生きていることは素晴らしいよと。


本当に途方にくれる。

パパは全部投げ出して亡くなったのだろうか。


私達の船出のきっかけをのこしているのだろうか?


まだ、分からない。


悲しい気持ちもあるが、なぜ?



そんな最近だ。