毎日、ほんとに暑いですね。
京都も連日、熱中症警戒アラート🥵

皆様、お元気でしょうか。

先日、涼を求めて山間部に入りましたが
その記事の前に、多賀の廃村のことを
知って頂きたいと思いました。



「霊仙山」で思い浮かぶのが
昭和40年代後半に人が住まなくなったという
山奥の集落
芹川上流の廃村群




「集落跡」が目立ちますよね。


多賀醒井線(17号線)で山に入ると

まず桃原(もばら)集落、後谷(うしろだに)

集落。


桃原集落は、登記上は無人のようですが

少し前には住民がいたようです。

かつてはスキー場や、芹川での渓流釣り🎣

レジャーで訪れる場所だったのですね。


綺麗な花桃の木があるようです。

花桃は大好きですが

猿が多い集落らしいです。




(写真は全てネットより拝借。

色々な集落の、あまり荒れていない画像を

載せています)





甲頭倉(こうずくら)、向之倉(むかいのくら)

甲頭倉は数年前にはお一人住んでおられて

集落入口はゲートがあります(準廃村)


今は「廃村」ですが、かつては其々の集落に

神社やお寺があり、現在でも定期的に

掃除に訪れる方もいます。



反対に、住む人もいなくなり

子孫も訪れず、朽ちかけているお寺も…。


車道ができたのは、人々が山を下りて

麓の町に移ってから。


車で入れる集落もあるようで、

登山者が車を停めたり

「廃墟マニア」が写真を撮りに来たり…


地図の「河内風穴」の下

細い139号線から入る保月(ほうづき)は

冬期無住集落。

寺社は手入れされ、夏休みには涼を求めて

こちらで過ごす方もいるそうです。



岐阜との境の五僧(ごそう)集落は

美濃から5人の僧が住んだのが始まり。


かつては、養蚕、麻、炭作りをしていました。


五僧の子供達は分校に行くにも

村を出るために何十分も歩き、

そこから分校まで何十分も歩き

腰まで雪に埋もれながらも

毎日歩き続けたそうです。


入学式、卒業式などは、分校に集まり

本校まで往復6時間以上。


台風で川が増水した時でも

水に浸かりながら歩き、先頭の中学生が

濁流に飲まれて流されたのを見て

「今日は無理だ」と引き返したことも

あったそうです。




この廃村群は、岐阜、滋賀、三重の県境。

湖東は戦国時代の激戦区だったため

敗れた人達が山に登って住み始めたのでは

ないかと思います。




関ヶ原で敗れた薩摩の武将「島津義弘」は

五僧に辿り着き、保月出身者小林新太郎の

道案内で、高宮(彦根市)の河原で

一泊し、信楽から大阪の堺に抜けて

船で薩摩に帰ったそうです。




「関ヶ原踏破隊」

この島津義弘の出身地、伊集院町から

毎年、関ヶ原→五僧→多賀のルートを歩く。


多賀大社万灯祭の日に合わせて

昼過ぎに五僧を越え(昼食抜き)

夕方6時に多賀に着き、万灯祭を見て

多賀に一泊しているそうです。



滋賀の大学のゼミで、歴史の勉強を兼ねて

毎年、廃村見学をする所もあります。


廃墟マニアは、朽ち果てていく姿が美しい←

これに関してはよくわかりません。


ただ、廃村を訪ねた人によると

なぜかわからないけど、とっても疲れた…

夕方、体に力が入らない

という話を聞いたことがあります。


人の住まない家には、生活用品が

そのまま残され、外部からの侵入者に

荒らされたり、

玄関ドアが外され、中がむき出しに

なっていたり…

崩れそうな家があちこちに見えたり…


生活用品は残すしかなかったのです。

麓に下りるにも土の山道を歩くしかなく、

荷物は背負うしかなかったのですから。



目に見える荒廃した様子だけでなく、

多分、村を残して去った人々の

悲しみの念も残っているような気がします。




哀しみの廃村、というよりは

賑やかなレジャー施設にでもなってくれたら。


難しいでしょうね。


調べると、もっともっと色々なことが

ありますが、あまり「哀しさ」を

前面に出さずご紹介したつもりです。


本日は真面目な長い記事にお付き合い頂き

ありがとうございます。