20231217(良く冷えて風がメッチャ強い日曜日),

風がビュンビュンと唸っていましたが「心地よい極寒」かな真顔

強風なので奈良盆地の濁った空気を一掃され太陽がめっちゃ眩しくてねおねがいおねがいチョキ

 

今朝は初の冬用インナーを付け出発おねがい

グローブも冬用、グリップヒーターON、座席ヒーターON、タイツ&長手厚手レッグウォーマーを履いて完璧防寒着で快調快調のバイク日和グッ

 

つい先日Googleマップで「多武峯」附近を見ていると「多武峰街道」(旧K155?)の辺りに

あの有名な「屋形橋」があって・・・、此処は以前から知っていましたが降りて見学するのは初めてでしたが、

 

案内板?が呆けて解読不能・・・、まぁ昔「やんごとなき人々」(高貴で身分の高い人)が「談山神社」をお参りする時通ったのでしょうね・・・、何年くらい前かな真顔

あの「中大兄皇子」と「藤原鎌足」の大化の改新(645年)を談合?した時代ですからその辺りでしょう・・・てへぺろ

で、

そこから旧道を上って(北)行くと、

破不動磨崖仏」と道を挟んで「不動延命の滝」が在りました真顔

 

「破不動」は綺麗に真二つに割れていましたびっくり

この破不動「(岩)は、

 

大きな山が地響きをあげて鳴り、大ゆれした結果「岩」が割れた」と伝承有り。

で、

この山が、

中大兄皇子と藤原鎌足が国家改新の、

「大化の改新」の「大化」とは日本最初の「元号」で大化時代(645)に国家改新をしたグッ

で、

その二人が「かたり」あったのが⇒「談」(かたらい)をした山で「談山」でその山に藤原鎌足を祀ったのが「談山神社」、かな真顔

で、一件落着かびっくり

 

↓ご参考に

御祭神 藤原鎌足公(談山神社由緒)

飛鳥・法興寺で行われた蹴鞠会

けまりえにおいて出会った中大兄皇子 (後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が、藤の花の盛りの頃、当社本殿裏山で極秘の談合をされました。
『多武峰縁起』によれば、「中大兄皇子、中臣鎌足連に言って日く。

鞍作

くらつくり(蘇我入鹿)の暴逆をいかにせん。願わくは奇策を

べよと。中臣連、皇子を

ひきいて城東の倉橋山の峰に登り、藤花の下に撥乱反正の謀を談ず。」と記されています。

この談合により、皇極天皇4年(645)飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を討ち、中央統一国家及び文治政治の完成という歴史的偉業を成し遂げられました。


多武峰はこの後、談峯談い山談所が森と呼ばれるようになり「大化改新設合の地」の伝承が残りました。現在の社号の「談山神社」もここからきています。


天智天皇8年(669)10月、鎌足公の病が重いと知った大皇は自ら病床を見舞い、後日、大織冠内大臣という人臣の最高位を授けられ、藤原の姓を与えました。藤原氏は、ここから始まります。鎌足公の没後、御墓は摂津国 阿威

あい山(現在の大阪府高槻市)に造られましたが、白鳳7年(678)唐より帰国した長男・定慧和尚が鎌足公の遺骨の一部を多武峯山頂に改葬し、十三重塔と講堂を建立して妙楽寺と称しました。さらに、大宝元年(701)方三丈の神殿を建て、鎌足公の御神像を安置しました。これが談山神社の始まりです。

(無断使用スミマセン)

 

【写真】

 

謂れ等、読めないのです・・・ショボーン

 

当時「談山神社」を参る唯一の橋だったでしょうね・・・。

 

 

 

右に上っていくと「談山神社」に行けます。

 

此処が「多武峰街道」でその傍に「破不動磨崖仏」と少し北側?に「不動延命の滝」が在ります。

 

 

慶長13年(1608年)って未だ新しい出来事ですね。。。

慶長3年(1598年)3月15日に豊臣秀吉が「醍醐の花見」を開催。(ご参考に?)

 

 

 

 

 

 

破不動尊です。

 

 

此れ・・・・何やってんな・・・・忘れましたショボーンショボーンショボーン

古代の剣のような形をして対の品なんですが・・・出て来ません。

 

 

 

 

 

 

「滝行」だったのでこの小さな小屋で着替えられたのかな?

 

 

此処から降りて行きます。

 

 

この先は何処に通じるのでしょうね・・・・真顔

 

この滝の元は・・・・、

 

近くの「せせらぎ」か「沢」から導水されて放出でした。

 

まさか「清水」とは云わないでしょうねびっくり

 

さぁ帰ります。

 

【走行経路】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                  ―長々とお疲れ様でした―