誕生日のホロスコープ。
今年1年を占う。
口の禍に注意な感じ。
気を付けよう![]()
自分のために、留めておきます。
誕生日のホロスコープ。
今年1年を占う。
口の禍に注意な感じ。
気を付けよう![]()
自分のために、留めておきます。
50歳を過ぎたあたりから、
つまり、更年期くらいから、
体に不都合が起き始めて、
老眼だったり、体力が減ってきたり、
それはまだ、「変化」でしか無かったけれど。
最近の体の状態は、痛みを伴う事が増えてきて、
最初は、ぎっくり腰で、次は、指の節々で、
坐骨神経痛やかかとも、痛くなったり、鍼灸の治療で、
なんとか抑え込めているけれど。
今は、肋間神経痛が起きていて。
この間、NHKの特集で見たときに、
細胞分裂をしなくなった細胞を、老化細胞と呼ぶ、
そして、老化細胞は、炎症を起こすようになると説明されていて、
ああ、それで、体の節々が痛むんだな、炎症を起こしているんだなと
理解した。
つまり、細胞分裂しなくなってきていると言う事。
それは、つまり、確実に「死」に向かっていると言う事が、
理解できた。
体は、私に、それをゆっくりと、でも、確実に
伝えてくれているんだと理解した。
もう長くは無いからさ、いたわってくれよ~と、
囁いているのだと。
そういう知識や自分の体の状態を理解して、
もう、若くないと言う事、
確実に、その日に向かっていると言う事が自覚された。
同時に、若いころのような、夢や希望と言う事も、
自分には起きて来なくなっていて、
その日を、ちゃんと迎えられるように準備が必要なんだと
思うようになった。
50代のころは、単なる「変化」だったものが、
「老化」であると言う事、
確実に、死に向かっている「変化」だと、分かる、
それが、老化の実感だ。
体はもう無理は利かないし、それどころか、
現状維持も難しく、確実に、枯れて行っている。
そういうことを、しみじみと感じる年齢になっていた。
やりたいことがみつからないことに、不満を感じていた。
やりたいことすらない自分が悲しかった。
枯れてゆくだけの自分に、寂しさを感じた。
それを、受け入れられず、抵抗しないと!と思っていたけれど、
でも、今は、ようやくあきらめもついて、
「ああ、これが経験したかったんだなぁ」と、納得した。
なんと、私の魂は、この「老い」「最期を迎える経験」が、
したかったようなのだ。
そして、これまでのいろいろは、その「老い」を、
味わうための序章であったと言う事。
色々あったからこそ、今迎えている「老い」の意味が、
深まると言うか、味わえると言うか、
若いころの自分と、諦めることの出来た自分の「比較」を
楽しんでいる感じ。
今は、非常に、しみじみと、ゆっくりと、自分に起きていることを、
五感を通して、味わえている。
若いころに無茶をしたから、
焦りまくって見落としてきたものが、見えてきて、
「そういうことか」と、胸落ちしたり、
この年になったからこそ見える、いろいろが、
若いころまじで、見えてなかったんだなと、分かる。
わからないから、無茶ができたと言う感じ。
「そういうことか」が、いっぱいあって、
いかに、若いころ暴走していたかがわかる。
若いころ、有って当然と思っていたことは、完全に思い込み、妄想で、
妄想できたから、走れたんだと。
でも、今は、ありありと、事実だけを眺めることができるようになっていて、
とても、落ち着いていられる。
人は、一人一人、完全に、違っている。
そのことが、ようよう分かって、
違うと言う事が、寂しいけれど、
でも、違うから面白いと言う事が分かって、
自分に近い人、似ている人を、
人は安心したくて、探すけれど、
でも、近いだけで、似ているだけで、全然別個の存在なんだ。
理解は一部しか出来なくて、その一部ですら、勘違いの可能性があって、
とことん、人は、自分とは違う生き物だと、
この年になってようやく、理解した。
それは、とても、寂しいこと。
世界に、私は一人しかいないと分かることは、
寂しすぎて、受け入れ不可能だったけれど・・・
でも、それが、事実だと、ようやく、理解できた。
だから、今は、とても静かに、穏やかに、
自分を大好きだと思えるし、大切にしたいと思える。
自分を理解する者は、自分しかいないと言う事が、
本当にしみじみとわかったから。
「老い」と言うのは、
それまで何を経験して、何を落としてきたのかを
理解する季節でもあった。
普通、老いは、辛いことだったりするけれど、
どうも、私の魂は、ここにたどり着くことが目的だったようで、
そのための若いころの無茶だったようで、
ある意味、ここから先の「老い」が、楽しみである。
若いころには、想像もしなかった感覚、価値観が、
今、私には起きている。
それが、面白い。
20代のころに、
もし、あの芥川龍之介や太宰治が、老年になっていたら、
どんな小説を書いただろう?と、想像したことが有った。
あの天才たちが、生きていたら、その感性で、何を書いただろうと。
きっと面白いものができていたのに、残念!と思った。
その年齢域に、自分が到達して、
老人にならないと味わえない「何か」を
今、私は、経験できるんだ!と思えるから、
「老い」も、悪いものではない。
体が日ごとに枯れてゆく、その苦しさや辛さや寂しさ。
その日が、遠くないことを実感する感覚。
経験に良いも悪いもない。
魂は、ただただ経験したい。
「それって、どうなの?」と。
私は今、その「それ」を経験中なんだ。
せっかくだから、ちゃんとしっかり経験しようと思っている。
この年まで、生きることができてしまったから。
「死」も「老い」も、美しい。
と、私は、感じている。
最後にある、AIに「戦争を止められるか?」と聞いた回答があります。
そこまで、読んでみて欲しい。
67歳、
私も明後日67歳です。
長いようで、長くなかったような。
残りがまだ、いっぱいあるような、無いような。
「これまで」と「これから」の不思議な感覚は、
この年にならないとわからないだろうと思える年齢です。
どこに向かっているのかだけは、分かっていますね。
でも、その過程が、どうなるのかは、分かっていない。
おめでとうございます。
ますますのご活躍を祈ります!
20年前に購入した愛車。
買ったばかりの時に、当然、神社に詣でて、車の安全祈願をした。
その車も、来月にお別れになるので、
その神社に、これまでの安全を守っていただいたお礼もかねて、
ご挨拶にでかけた。
たぶん、このドライブが最後のロングドライブになると思う。
片道50分だけどね。
私の場合、人間も物も含めて、20年もいっしょに生きたのは、
まだ現役で働いている洗濯機(25年か?)とこの愛車以外にはなくて、
人間(娘を除く)でも、10年以上関わった人はいなくて。
そういう意味でも、私のこれまでのいろいろを知ってくれている。
一緒に出掛けて、出かけた先で、色々あったし、
人生に起きたいろいろを抱えて、この車で走ったこともあったし。
そういう意味でも、本当に、数少ない相棒で、大切な存在で。
お金に余裕があれば、壊れて動かなくなるまでいっしょにいたかった。
それほどに愛着を感じた存在だった。
私がぶつけて修理したことはあったけれど、
車自体が壊れたことは無くて、
今日まで無事に、私を乗せて走ってくれたことも感謝した。
さすがに21歳になったその愛車は最近、
違和感を感じる音が、増えてきた。
もちろん、車内の雑音も増えてきたし、
道路の凸凹を拾ってしまう音も増えてきた。
私の体同様に、老いてきたんだな~と、
しみじみと、相棒に、同じだね~と語りかけながら。
ただまだ、私の体と同様に、心臓だけは元気らしく、
足腰だけの症状で済んでくれていることがありがたい。
あとひと月となった この車との付き合いが、
やはりとても寂しい。
大切にする仕方も知らず、ただただ乗って走っただけであった。
ので、見掛けもボロボロだし・・・
たぶん、中身も、私には分からないところで、痛んでいるだろう。
お互いに、体をいたわろうな~と声をかけながら。
今頃になって、車をいたわっている。
労わり方がわからなかったので、仕方が無いのだが・・・
それでも、20年も私に寄り添ってくれた愛車。
有難すぎる!
20年も乗っているのに、9万キロも走ってはいないけど。
その出会いそのものに、感謝して。
いよいよ3月下旬、お別れ。
本当にありがとう!