南洲残影 江藤淳著(文芸春秋)

 西郷隆盛は九州を転戦し、最後は、故郷の城山で死を迎えます。この著書は、その推移を時系列的に淡々と述べています。

 熊本城の戦い、田原坂の戦い、人吉城の戦い、和田越しの戦い城山の戦いと、部分的には勝利した戦いもありましたが、全体としては、大敗に終わりました。

 というよりも、負ける戦いと分かっていて、最後まで戦い抜いた、と言った方が正しいかもしれません。

 

 これは、和田越し戦いの現地の案内板です。これを見ながら、読むと、イメージがより鮮明になります。

 和田越(和田峠)は、豊後街道を延岡から大分方面に行った所にあります。

 薩摩軍は、友内山から、無鹿山、神楽田山、堂坂、小梓山、長尾山に至る山稜に布陣し、官軍と向かい合います。

 対する官軍は、東海港に戦艦を配置し、に、熊本鎮台、に警視隊、新撰旅団、に、第二旅団、別働第二旅団、第三旅団、第四旅団、西に第一旅団と、薩摩軍を包囲しました。絵図には、別働第二旅団や第四旅団の前に、夥しい大砲が並んでいます。

 物量的にも、組織的にも、官軍の優勢一目瞭然です。

 薩摩軍は、なす術もなく、北の長井村、さらには可愛岳方面へ逃げ延びていくことになります。

 

 薩摩軍は、最後に、故郷の鹿児島に戻ります。

 しかし、一旦は米倉を制圧したものの、官軍の包囲網にじりじりと攻寄られ、後退せざるをえません。薩摩軍の最後の砦となったのは、岩崎谷でした。

 岩崎谷は、岩崎口から、城山に至るまでの谷地です。ここへ、薩摩軍は洞窟を掘って潜伏しました。また数々の堡塁を築き、官軍の攻撃に備えました。

 明治10年、9月24日、午前4時、官軍の城山総攻撃が始まります。隆盛は、輿に乗って洞穴から出て、疾風の如く、岩崎谷を下ります。

 岩崎口にあと百メートルという所で、西郷は銃弾に倒れました。享年51。

 

 前回、西郷隆盛の行動を「ほろびの美学」と書きましたが、本書を読むと、そのような情緒的なものではなく、欧米化した明治政府を糾弾する徹底したゲリラ戦だったように思えます。