安政2年に「蕃書翻訳御用」という役職についた勝は、オランダの航海術を学ぶ「長崎海軍伝習所」の伝習生に抜擢されます。「海軍伝習所」は、出島の東側にある「西御役所」の中にあったようです。勝は、宿舎である「本蓮寺」から、そこまで通いました。

 

 

 

 安政4(1857)年、第一期の伝習が終了すると、多くの伝習生が脱兎のごとく江戸に帰ろうとする中、勝だけは、喜んでその後も長崎に残ります。

 航海術を極めるという理由もあると思いますが、ここでは、勝が通学中に、西坂町の「お久」(玖磨)という女性に出会ったことを挙げています。お久さんは、本蓮寺から聖福寺までの大地主であり、米屋である梶家の娘だといいます。のちに、勝はお久との間に、「梅太郎」という男の子をもうけています。

 安政5年、勝は、咸臨丸に乗り、天草、五島、対馬、平戸、下関、鹿児島と航海の実地訓練を行い、鹿児島では、島津斉彬と交友を深めました。

 安政6(1859)年、築地に軍艦操練所ができると、長崎の伝習所は閉鎖され、勝は、築地軍艦操練所の頭取に昇進します。