『ちいかわ』の映画を観た。

もともと可愛らしいキャラクターたちの印象が強い作品だけれど、今回の話を観終わったあとに残ったのは、その可愛さとは少し離れたところにある「罪と罰」についてのことだった。

物語を観ていて、まず気になったのがちいかわの行動だった。

途中でちいかわは人魚の鱗を見つけ、人魚を食べた存在がいることに気づいていた。それなのに、そのことをハチワレたちには伝えない。

ここがずっと不思議だった。

自分だったら、鱗を見つけた段階で一緒に来たハチワレたちに伝えると思う。少なくとも、自分一人だけで抱えておこうとはしない気がする。だから、ちいかわが気づきながら黙っていたことが余計に気になった。

なぜ今回は言わなかったのだろう。

そして、その事実を知ったうえで、ちいかわはセイレーンと戦うことになる。

このとき、ちいかわは一体どんな心境だったのだろうか。

人魚を食べた存在がいることを知らないまま戦うのと、知っていながら戦うのとでは、同じ戦いでも意味が少し違って見える。もちろん、ちいかわが実際に何を考えていたのかは分からない。だからこそ、黙っていたことも含めて気になってしまう。

一方で、戦いそのものは純粋に見ていて楽しかった。

アクションシーンはしっかり格好いい。それでいて、ちいかわたちの可愛さが消えてしまうわけでもない。格好良く戦っているのにちゃんと可愛い。その二つが同時に成立しているのが良かった。

ただ、物語が終盤に進んでいくにつれて、単純に「敵を倒せば終わり」という話ではないことがはっきりしてくる。

特に印象に残っているのが、セイレーンを辛さで封じ込めたあとのハチワレの言葉だ。

「討伐するのが正しいのだよね」

この言葉が妙に残った。

「討伐する」と言い切るのではなく、「正しいのだよね」と確認している。

ここまでの事情を考えると、その確認が必要になるのも分かる気がする。

今回の話には「罪と罰」という言葉がある。

ひとはとふたはは、助かるために人魚を食べた。その行為がすべてのきっかけとなり、二人には罰が与えられようとする。

人魚を食べたという事実だけを見れば、二人は罪を犯したことになるのだと思う。

けれど、二人は助かるためにそれをした。

だからといって、人魚を食べたことが正しい行動になるわけでもない。でも、生き延びようとした二人を単純に「悪い」と言い切ってしまうのも、何か違う気がする。

一方で、セイレーンにもセイレーンなりの理由がある。

そう考えていくと、この話には「この人の行動が正解だった」と簡単に言えるものがほとんどない。

明確に間違っている行動も、明確に正しい行動もない。

だからこそ、「討伐するのが正しいのだよね」というハチワレの言葉が印象に残ったのだと思う。

正しいことが明らかなら、わざわざ確認する必要はない。

「これが正しい」と自信を持って言えないからこそ、「正しいのだよね」と誰かに確かめたくなる。

そう考えると、序盤でちいかわが鱗を見つけながら、そのことをハチワレたちに伝えなかった場面もまた気になってくる。

ちいかわは何かに気づいていた。

それでも黙っていた。

そして、そのままセイレーンと戦った。

なぜ黙っていたのか、なぜ知りながら戦うことを選んだのか。自分の中では、最後まで答えは出なかった。

でも、今回の物語では、その「分からなさ」そのものが大事なのかもしれない。

誰か一人を悪者にして、その人を倒せばすべて解決する話なら、「罪と罰」という言葉についてここまで考えることもなかったと思う。

物語の最後、ひとはとふたはは二人で島を抜け出す。

二人は助かった。

けれど、あの結末を見ても、単純に「二人が助かってよかった」とだけは思えなかった。

二人には、この先も二人で生きていく時間がある。それも、普通の時間ではなく、永遠ともいえるほどの時間だ。

島を抜け出したことで、罰から完全に逃げることができた、と見ることもできるのかもしれない。

けれど自分には、二人で永遠を生きていくこと自体が、別の形の罪滅ぼしのようにも見えた。

誰にも頼れず、二人だけで生き続けていく。

罪を犯したから罰を受けて終わり、という単純な関係ではなく、その後もずっと二人の時間は続いていく。

そう思うと、「罪と罰」という言葉の意味も少し違って見えてくる。

罰とは、誰かから与えられるものだけなのだろうか。

そして、誰かを罰することは、本当にいつも「正しい」ことなのだろうか。

映画を観終わったあとも、自分にはその答えは分からない。

だから今も、ハチワレのあの言葉が残っている。

「討伐するのが正しいのだよね」

その「だよね」に含まれている迷いのようなものが、今回の『ちいかわ』の物語を一番よく表していたように思う。