里山海道の穴水インターで降りて

輪島市三井(みい)→杉平(すぎひら)から輪島の街中へ入りました。

 

輪島駅前と表示した信号機が傾いています。

駅前と言ってもかっては『のと鉄道の七尾線の終着駅』でしたが

2001年に廃線になったのでもう駅としては存在しません

 

廃止後の駅跡は整備され

駅舎は当時の名残を残し

道の駅「ふらっと訪夢」となっています。

 

その駅前には

昔お世話になった方が民宿を営んでおられた家があったんだけど

全壊で住めなくなったので

数日前に公費解体が済んだと聞いていたので行って見たら

完全に解体し更地になっていて

車を降りてしばらく立って見ていましたが

若い頃に自分が住んでいた頃に見ていた風景が

そのままあるとは思っていなかったけど

あまりの変わりように言葉を失いました。

 

その家の後ろに私たちが住んでいたアパートがあったんだけど

今はなく当時の大家さんが何年か前に建てた民宿に

『危険』という紙が貼られていました。

 

テレビ・新聞や写真集などで被害の大きさは見ていたつもりだけど

いざその地に立って見ると自分のこれまでの存在が

瞬時に消えるような感覚がして目眩を感じました。

 

気を取り直して今回お伺いする民宿さかしたヘ向かいました。

(懐かしさが先になって写真を撮るのを忘れました)

 

玄関を入ると電話で話しには聞いていたけど

おばさんは歩くのが不自由なので

部屋の中からにっこりと笑い顔で迎えてくれました。

 

向かいに住んでいる人がいらしていたけど

お互いに”分からんよね”と言いながらも

お土産に持って行った凧を見せると

お向かいの人は

”あぁ~分かった 内灘で凧をしていた人だね”と

夫のことが分かり色々話が弾みました。

 

おばさんはぜんざいを作るのにストーブの上に鍋をかけ

小豆を炊いていた時に地震が発生し

揺れで鍋がひっくり返って腰の辺りにやけどを負った話や

民宿で使っている食器が転げ落ちたりして大変だったことや

息子の学くんは隣町の穴水へパチンコに行っていないので

津波が来るというので車いすで移動していたら

誰かが車いすを押してくれて公園の近くの避難所へ避難した話を

心細かったけどケガもなく家も壊れなかったので

本当に感謝していると言っていました。

 

能登は何度かの地震を経験しているので

地震に対する危機管理がしっかり機能していて

聞く所によると私の住んでいる市の地震に対する危機管理よりも

数倍いやもっと避難所の開設も早く素晴らしいものでした。

 

私が中学校に避難したんだけど・・・・という話をしたら

”何やそれ?”と。

 

火災のあった朝市通りに住んでいたおばさんのお友達が

火事と地震で倒壊した家の中から助けを叫びながらも

救出してもらえず家族3人が焼死した話を聞いて

どんなに無念だったことだろうと手を合わせました。

 

お昼は私が作って持って行ったホタテおこわと

インスタント味噌汁を食べ

発災から3か月半 

未だ時々余震があると言っていましたが

今日が平和なことが有難いね・・・・と。

 

来る時は2時間半くらいで輪島まで来れたけど

帰りは穴水から徳田インターまでは通行禁止区間だから

もっと時間がかかると思ったので

民宿が営業できるようになったら連絡をもらうことを約束し

火災のあった本町や朝市通りの被災状況を見て帰るので

お暇しました。

 

民宿さかしたは

発災当時から市役所を通じ

県外からの災害派遣の人たちの宿泊施設になっていて

7月末まで毎日30人の予約が入っているそうで

”食事を出せないのが気の毒だけど”と言い

そういう人たちの力を借りて一日も早く復興し

旅行客に能登を盛り上げて欲しいと思いました。

 

 

被災地輪島へ行ってきました ③に続きます