私はこの靴が羨ましいと感じます。お花の満足げな喜ぶ姿を観ることができるのは、この靴がお花のためにすべてを惜しみなく与えているからです。靴を履いたお花は、しあわせなお花だと思いますが、もっとしあわせなのは靴だと思います。

 

しあわせを享受するお花と靴をわざわざ分けて考えなくても良いのですが、私ならこのお花よりも靴になって、お花を満足させ、喜ばせたいと思うので、あえて靴のしあわせを強調して語りたくなるのです。

 

愛する人のために与えるしあわせ、それをよく受けて喜ぶ姿を観るしあわせ、いつでも、どこでも、何度でも、惜しみなく、終わりなく、愛する人のために与えたい、この抑えることのできない衝動は、愛する人と一緒に喜び、しあわせを享受したいから、泉のように湧いて来るのだと思います。

 

その延長線上に、たとえ裏切られ、奪われ、傷付けられても、赦し、とりなし、信じて、更に与えて愛そうとするのも、「あなたと私」がしあわせを享受する唯一の道だと知っているからだと思います。