例え同級生であっても、真髄はなかなか伝わらない。
何十年もの歳月を経ても、何も伝わらないコトの方が圧倒的に多い。
残念であり、悲しい現実ではあるが、それは潔く受け入れた方が身のためだ。
何も見えていない相手に対して、多くを求めたところで、期待以上はもちろん、マイナスイメージで返って来て、ツラい想いをする事もしばしばだ。
先日、ANZEN漫才のみやぞんのツイッターが注目を集めた。
「相手は変わらないよ」
こっちが気にして寝れなくても相手は寝てる。
せっかくの人生嫌な人の事を思って生きてもしゃーないよ
向こうはあなたにしたこと忘れてる
こっちが変わるのよ
幸せな人間は相手傷つけたいと思わない、だからその人に幸せになって欲しいと上に立つ
「強気だよ」
このつぶやきが各方面から評価され、あらためてみやぞん人気にうなづいた人も少なくない。
吉田松陰先生も同じ様なコトを言っている。
詳しくは「神様になった吉田松陰とカール・ゴッチ」に書いているので、各自調査でお願いします。
決して言葉にする事も、見える様に鼻から息を大きく吸込み、大きなため息を一つ、長く着くことはないが、心の中でイメージをした。
だからといって、慌てて言葉を遮る様な野暮な事はしない。随分大人になったもんだと、1人寂しく鼻で笑う。
人の好き嫌いをとやかく言う事はない。
それでも真実ではない部分で批判されるのは、あまり面白いものではない。
でも、声を荒げて反発したり、こちらの想いをぶつける事もない。無駄な争いを避けて、「へへへ」と笑ってお茶を濁す。
「こんな大人になりたくない」と横目に見て鼻で笑っていたコトが懐かしい。
そんな大人になるなんて、想像なんて出来なかった。
ただただここまで生きてこれたのは、"怒り"が原動力となっていたからと思っていたから、織田信長がこの世を去った同い年に、怒りよりも平和を選ぶとは…である。
この歳になって、意識をされても驚くばかりで、見方も少し変化するとは思うのだけど、案外そうではないことに出くわすと、なんだか寂しくなってしまうが、その反対に「いつも影ながら、ブログよんでます。」と、中学時代チームメイトであり、同級生から、突然のLINEで褒められると素直に嬉しいし、気合が入って益々やめれそうになくなってきた。
伝わらない真髄は、みやぞんのつぶやきのように、相手は変わらない。と悟り、自分が変わればいいのだと、バカボンのパパのように納得した方が、天才の反対の反対のこれでいいのだ。
後編につづく