コーチング論 3 | 花師論

花師論

まるっきり今までの生活を捨てて、ひっそりと身を隠して起死回生をボ~っと見つめるただのおっさん。
世間では「報われない人」と笑われ、「前に出るな」と罵られながらも、いつも笑顔で暮らしている。
さてさて、この先どこまで行くのやら?

「褒めて育てる」

なんて馬鹿馬鹿しい言葉なんだろうか?

「子どもの目線に立って話す」

ゆとり教育の末路は、とうとう日本沈没へとカウントダウンさせる気なのか?

間違った「褒める」日常で使ってませんか?
ひょっとして、「うちの子は天才」、そんな馬鹿げた事を本気で思ってるのでしょうか?

思うのは構いません。
親がそう思ってやらないと、子どもは五里夢中へと踏み込んでしまう。

先日、「ろうきん」さんの発行する冊子のインタビューを受けました。
その中でも、子どもを褒めるという事で、なかなか突っ込んだ取材を受けたのですが、最後の最後まで「褒めない」を通しました。
大和魂に声援を贈ってくださる「タマノイ酢」の若きリーダーは、「教育ではなく、強育をして行きたい。」と、熱く語ってくれた事を思い出します。
監督として、「強育」という言葉に熱くなったのは当たり前!
ついでに言えばさらに踏み込んで「狂育」までと、熱く思ったのは言うまでもないです。

子どもを褒めると同じ事で、コーチングの中にも「褒める」というキーワードは欠かせません。
ただ、直接選手を「褒める」と、褒められる事だけを求めてきます。
これではいい物を持っていても、さらなる開花は難しいです。

「褒めて育てる」

これは直接褒めるのではなく、親を通したり、他のコーチを通したりし、間接的「褒める」事を指すんです。
選手は間接的に褒められると、一体何を褒められたのか?どこを褒められたのか?を探し出す。探し出すとそればかりを求め、自分の成長ではなく、「褒められる」事に心が移る。
これでは何をしているのか?
全く見えてこない。
「褒められる」為に勉強や、スポーツをしているのではない。
自分自身の戦いであるのに対して、「褒められたい」では先が見えない。
自分自身の戦いである事を、指導者は明確に伝えなければならないのが・・・
残念ながらそれが出来ている指導者は少ない。

「子どもの目線」も同じ事で、子どもと同じ大きさになって話す事で、「目線」と考えているのでは、何が何だか見えてこない。
思い出して欲しい。
子どもの頃、どんな風に大人を見ていたか?を。
きっと憧れの目つきで、下から上を見上げていたのではないだろうか?
太陽の日差しが逆行で、想像以上に眩しさを感じた事を思い出せば、きっと「子どもの目線」を思い出す事が出来る。
もしも!
そんな経験がないのなら、憧れたTVスターや、スポーツ選手を、どんな風に見つめていたか?
それを思い出せば答えは見えてくる。

子どもにはいつまで、大きな壁であり、存在でないといけない。
目の前に聳え立つ大きな壁であり、存在であるからこそ、子どもは乗り越えようともがくのだ。

大人は、指導者は、子どもにもがかせてナンボ!なのだ。

ちょっとした事で褒める。
ちょっとした事で認める。
ちょっとした事でかばう。

本当に子どもの事を考え、思うのなら、覚悟を決めてど~んと突き放さないと、子どもは成長を始めずに、いつまで経っても子どものまま成長しない。
まずは大人が大人らしい振る舞いをする。
そして親は、木の上に立って見る。

それでも褒めたいのなら、未来を捨てる覚悟で褒めればいいだろう。
誰だって怒られたくない。
褒められれば気持ちがいい。
でも、その欲望はたかがしれている。
未来へと続く道の中に、誰もが手放しで褒めてはくれない。
そんな世間で生きるのだから、些細な事で褒められると、喜びは倍増である。

褒められない

これを日々、当たり前と受け止めれば、子どもは驚くほどの成長を遂げる。
騙されて下さい。
騙されて、上手く行かなかった時、もう一度振り返り、見つめ直して、何がダメだったのか?考えて下さい。
それでもダメだったら、どうぞこの文章を読んだせいだ!と、責任転換して下さい。

したところで、何も未来は変わらない。

すべては「原因、結果」だからです。

可能性を見つけ、褒めずに見続ける事
これは現代に残された、最後の正攻法なのかもしれません。

子を愛する想いがあるのなら、どうぞ「狂って」下さい。

「狂育」
狂って育てるからこそ、心の強い、そして美しい人に育ちます。