「マスコミ取材拒否」を聞いて | 花咲宏基オフィシャルブログ「日に新た」Powered by Ameba

「マスコミ取材拒否」を聞いて

話題としては、少し古い話。


前原政調会長の「マスコミ取材拒否」の報道に接して、すぐに、思い浮かんだのは、「永遠の0」の下記の一節でした。


この一節は、元特攻隊員で経済界の大物となった武田貴則が、特攻隊員を狂信者と評する新聞記者の高山に放った言葉です。


▽▽ここから▽▽


 武田は言葉を封じた。
 「夜郎自大とはこのことだ――。貴様は正義の味方のつもりか。私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている。日露戦争が終わって、ポーツマス講和会議が開かれたが、講和条件をめぐって、多くの新聞社が怒りを表明した。こんな条件が呑めるかと、紙面を使って論陣を張った。国民の多くは新聞社に煽られ、全国各地で反政府暴動が起こった。日比谷公会堂が焼き討ちされ、講和条約を結んだ小村寿太郎も国民的な非難を浴びた。反戦を主張したのは徳富蘇峰の国民新聞くらいだった。その国民新聞もまた焼き討ちされた」


 高山は「それは」と言いかけたが、武田はかまわず言った。


「私はこの一連の事件こそ日本の分水嶺だと思っている。この事件以降、国民の多くは戦争賛美へと進んでいった。そして起こったのが五・一五事件だ。侵略路線を収縮し、軍縮に向かいつつある時の政府首脳を、軍部の青年将校たちが殺したのだ。話せばわかる、という首相を問答無用と撃ち殺したのだ。これが軍事クーデターでなくて何だ。ところが多くの新聞社は彼らを英雄と称え、彼らの減刑を主張した。新聞社に煽られて、減刑嘆願運動は国民運動となり、裁判所に七万を超える嘆願書が寄せられた。その世論に引きずられるように、首謀者たちには非常に軽い刑が下された。この異常な減刑が後の二・二六事件を引き起こしたと言われている。現代においてもまだ二・二六事件の首謀者たちは『心情において美しく、国を思う心に篤い憂国の士』と捉えられている向きがある。いかに当時の世論の影響が強かったかだ。これ以後、軍部の突出に刃向える者はいなくなった。政治家もジャーナリストもすべてがだ。この後、日本は軍国主義一色となり、これはいけないと気づいた時には、もう何もかもが遅かったのだ。しかし軍部をこのような化け物にしたのは、新聞社であり、それに煽られた国民だったのだ。」


△△ここまで△△


司馬遼太郎氏も、「坂の上の雲」で、日比谷の焼打ち事件を、分水嶺と位置づけています。


政治家は、歴史から、今を考察しなければなりません。

正しい考察ができるか。

それは、政治家の力量です。


“毎日が行革!”

花咲宏基

hanasaki@hanasakihiroki.jp