とおくはなれて、つかまえて

とおくはなれて、つかまえて

時々書く、メモのように

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$とおくはなれて、つかまえて


買ってきたばかりの珈琲豆の袋を開けると、まだローストしたてのあの香りが、彼女の顔を包んだ。
計量スプーンでそろそろと計って、ミルに入れる。
引っ越し祝いで貰った、手動のミル。
えー、面倒くさいな、なんて苦笑いして受け取ったけれど、使っているうちに段々と、こういう時間も良いものだな、と思えるようになった。

何より、感触が良い。
ガリガリと小気味良い音を立てて、豆を砕く。
すると、彼女の中のわだかまっているものも、同じように砕かれる。

遠くの方から、音が聴こえる。
何の音だろう。
犬笛のようなもの。
目眩がする時に、頭の中に響く音。
意識を集中させる。
音の中に入っていく。
何の音か、分からないけれど、何かとても懐かしいものだ。
子供の時に聴いたことがあったもの。



残りもののカレーに、トーストを浸して食べるお父さん。
わあ、行儀悪いよ、なんて思っていたけれど、今では私もそれが大好物だ。
カレートースト、朝の珈琲。テレビのニュース。留さん。ズームイン。
おかあさんはご飯党。お味噌汁。ストーブで、ぱりぱりに炙った海苔。
私は、トーストにいちごジャム、旗のマークのびん。それから、粉で淹れたココア。
窓の外には雪が積もる。

夏が好き、なんてのは逃げだ。
あの頃の私は、冬が好きだった。
女の子は、おしとやかにしなさい、なんて言われて。
しもやけになって、鼻水を垂らしても、元気に走り回っていた。

どこに向かって?

ゆーきやこんこん、あられやこんこん。
ふってもふっても、にわかけまわり。

その間、ずうっと、その音が頭の中に鳴ってたんだ。



彼女は思わず笑った。

土日も白。全部、白。
白い壁に貼った、水色の紙に白抜きの文字で数字が書かれたカレンダーを眺める。
6月21日。月曜日。
今日は夏至だ。トラン・アン・ユン。
冷たいそうめんか、冷やし中華。
カットしたやつでもいいから、スイカも買ってこよう。

その時、おお、と閃いた。
音の正体は、サイン波だ。
CDのジャケットを手に取り、ひとしきり納得すると、彼女は、まだ熱い珈琲を口に運んだ。


Ensemble Cathode
Ensemble Cathode
大友良英
サティ:ピアノ作品集(1)
サティ:ピアノ作品集(1)
高橋悠治,サティ



高橋悠二の演奏するサティが、PCに繋いだスピーカーから小さな音で流れてくる。
買ったばかりのJBLのスピーカー。
音量を調節しようとして、誤った操作で、別のウィンドウで同じ曲を二重に再生してしまう。

一人目が先陣を取り、二人目が正確にそれをなぞる。
これ以上ない程に、息のあった双子のコンビだ。

そうして、架空のデュオが生まれた。



白地に細いボーダーのクルーネックのカットソー。
袖をまくり直す。
バケツから取り出した雑巾を絞りながら、窓からの光に反射する床を眺める。
この部屋に引っ越してきた時はこんな感じだったな。
初めての一人暮らし、新しい家具、電化製品。

何かに迷った時は掃除をすると良いよ。
部屋の中をすっきりとさせることが、頭を整理する入り口。
電話口で、そうお姉ちゃんは言った。



靴箱の中から、古い手帳を見付けて、ぱらぱらと捲る。
昔のバイトのシフト、誕生日、記念日、簡単な日記。

ビニール製のカバーの端に、見覚えのあるメモが挟まっている。
遠い記憶のメモ。
でも、私はよく知っている。


・・・


まわりをみて  たまらなくさみしくなったら  かえっておいで
きみがそれをはじめたのより  ずっとまえで  ぼくはまっている


・・・


子供の頃、仲良しだった男の子から貰った、チラシの切れ端に書いてある手紙。
その時は何のことだか、分からなかったけれど、手紙を貰っただけで嬉しかったんだ。
返事を書いたのを覚えてる。

今なら、その手紙の意味が何となく分かる。
ねえ、どうして君は、そんなことが分かったの?



PCに近付くと、おもむろに電源を落とした。
双子のデュオは沈黙する。
その余韻は、私の頭の中にしばらく残る。
でも、それもすぐに消えるだろう。

ベッドに倒れるように仰向けになって、真白い天井を見上げた。
窓からの風で揺れる、ビニールの手帳カバーに反射した光が、天井にゆらゆらとした波を作る。
海辺の昼寝、と私は呟いた。

どこからともなく、何となしに。
また、会えるような気がしたんだ。
頭の中でオルガンに合わせて歌う、子供たちの童謡を諳んじながら。
私は、昼下がりの陽射しの中で、軽く目を閉じた。


fin.
とおくはなれて、つかまえて

レイ・ハラカミの音が、心地よく部屋に鳴り響いた。
それは必要な隙間を、全く丁度良く、ふわりと埋めた。
行きたい場所は、はっきり決まっていた。
ただ腰が重いだけだ。

コーヒー豆と、美味しいあんぱんを買いに行く旅。
島の反対側にある喫茶店で豆を挽いてもらい、それから岡の上のパン屋にあんぱんを買いに行く。

船便で送られてきた村上春樹の新作は、中々読み進まなかった。
正確に言えば、読み始めることができなかった。
でも、一度開いてしまえば、ところてんのように、するっといってしまうんだろう。
そのあたりまえが、ちょっと悔しくて、くすぐったかった。

白いフレーム、大きな額の中のポスター。
ひばりくんが微笑んだ。

炊飯器が鳴った。
韓国のりで巻いて食べた。
のりの表面を見ていたら、人気のない、ごつごつした海岸を思い出した。

遠い水平線に、島から離れていく船が見える。
バイバイ。
またね。
大きく手を振って、思い切り叫んだ。
もう戻ってこない、なんてことは知っていたんだ。
でも、また会いたいな。
心のどこかでは、きっと。
ずっと、待っているよ。

踏まないようにする。
しおれないようにする。
たまには日にあててやる。

そうしていつものように、窓辺のアンスリウムに水をやる。
髪が大分伸びてきたな。
さて、今度は前髪を作ってみるか、と、その勢いでドアを開けた。

fin.