似たようなことを何度も書いてしまうかもしれません。

似たようなことを書いてるな…言っているな…と自覚するようになり、アボジももしかしてこんなカンジだったのでは?と思うようになりました。

こんなカンジ、というのは、「自分の伝えたいことを伝えきれていない」「伝わっていないような気がする」そんなことを思いながら、言葉を変え、例え話を変え、話すテンションを変えながら、背景も文化も言語も全く違う世界のすべての人に自分が悟った内容

を伝えようと、必死だったのではないか、ということです。


心理学系の学びを進めると、様々な「人の分類の仕方」が出てきます。

・人によって、視覚、聴覚、体感覚のどれがどれが優位になるかは違う

・話をしようとすると、詳細に話をしたくなる人と、全体の話をしたくなる人がいる

・自分の内部にある基準に基づいて判断を下す人と、外側の反応を見て判断を下す人がいる。


上記のような内容が何十個と出てきます。人の性質はそれほどまでに人によって違うし、性質が違えば、情報の受け取り方、受け取れる量、理解の仕方などが変わってきます。だから、ほんの一つの事柄を伝えるだけでも、万人が同じように理解できるように伝えるのは、本当に難しいことだったのだろうと思うのです。

多分、アボジが伝えたかったことは大した量はないし、とてもシンプルだったのではないかと思うのです。「大した量のないシンプルなこと」を、あらゆる性質の人、あるゆる背景をもつ人、あらゆる霊的成熟度の人に伝えたかったから、これ程の量の御言集ができたのではないかと思います。

あまりにも話す量が多くなってしまったため、本質が分かりづらくなり、例え話として出した話の中に矛盾をはらむようになったのかもしれません。

また、話半分に聞くような文化を持つ人びとに聞かせる為に、過激な内容を含むようになったのかもしれません。


現役でも反対派の人でも「文鮮明はこのように話している」という御言の引用を持ち出すことがありますが、それになんの意味があるのだろうと、アホらしく感じてしまいます。

アボジは自ら悟った真理をあらゆる言葉を使って伝えたかっただけで、「アボジが語ったこと全てが真理」というわけではないと思います。さらに言うと、真理を悟ることだけには大した意味はありません。真理をもとにどう行動するのか、どういう人生を歩むのか、どのように他者に影響を与えていくのか、が重要なことなのだと私は考えます。

アボジが語った全てを鵜呑みにして行動してきた食口も、アボジの反日発言を取り上げて叩いてくる反対派も、似たもの同士な気がします。

本当にその人が言いたかったこと、したかったことに目を向けていない。そして、他人が言った言葉を、自分の好きなように変換して捉えている。でもそのことに気づかす、自分の行動の動機を自分ではなく他人に置いている。


まあ、自分も気をつけようと思います。