自分の意見を人様にわかりやすく伝えるのって、思った以上に難しく、思ったより伝わってないな…と思うことがあります。


特にここでは思想とか、価値観とか、人との差異が激しく、より抽象的なことを書いているので、余計伝わりにくいのだなと感じています。でも伝わっていないからこそ、自分の中にある「前提」に気付くことができるので、それはそれで自己理解が深まって面白いと思っています。


さて、本題です。

家庭連合関係者に自分の価値観を伝える為に、何から説明したらいいのだろうと考えて、掘り下げて掘り下げて考えて、行き着いた先がこのタイトル「原理講論と昔話」です。


「原理」という言葉は、「内的真理」とか、「目に見えないルール」とか、「宇宙全体のプログラミング」みたいなイメージで私は捉えています。しかし、私の親を含め、多くの食口、そして、批判してくる離教者までも、「原理=原理講論」と思っているようなのです。だから、信仰観、価値観を話したときに、全く話が噛み合いません。

そもそも「原理講論」は、「聖書の解説書」という立ち位置のはずです。聖書を学んできたクリスチャンに新しい真理を伝えるために原理講論は書かれました。では、聖書には、真理が書かれていたのでしょうか?

私は、「霊的成熟度によって受け取れる真理が異なるように、部分的に、比喩的に書かれていた」と理解しています。

大前提として、私は、聖書に書いていることが本当に起こったことだとは、ほぼ思っていません。本当に起こったこともあるのでしょうが、真理を受け取るうえで、聖書に書いてあることが事実かどうかは、正直どうでもいいと思っています。聖書はただの物語です。だから、「聖書を学んで真理を得る」というのは、「昔話を読んで教訓を得る」ということと、やっていることは同じだと思っています。


どういうことかといいますと、例えば、かの有名な「笠地蔵」を例にあげて説明します。

笠地蔵を読んだとき、多くの人が、「他人に優しくすると後からいいことがある」と感じたのではないでしょうか。これが、教訓、もしくは、真理、ということになります。敢えて一言で表すとしたら、「情けは人の為ならず」といったところでしょうか。

一方、「失楽園」について考えます。失楽園の中でも特に、ルーシェルがエバを誘惑し、エバがアダムを誘惑する場面を取り上げると、そこから得られる真理として、「自分に罪があると、他人にも同じ罪を被るように誘導してしまう性質が人間にはある」というものが考えられると思います。それを一言で表すために原理講論では「堕落性」という言葉を使っています。

※「堕落性」は他の意味も含んでいます。


「情けは人の為ならず」って、私は真理だと思っています。でも、笠地蔵が動くことがあるとは微塵も思っていません。笠地蔵が動いていなくたって、「情けは人の為ならず」は真理であることに変わりないと思います。

同じく、「堕落性」は真理だと思っています。人間にはそのような性質が多かれ少なかれあるのでしょう。でも、アダムさんとエバさんは存在しなかったと思っています。


私は「原理講論」全般をこのように捉えています。だから、「原理講論が真理だ」という気は更々ありませんが、「原理講論には真理が書かれている」というのはあながち間違いではないのだと思っています。ただ、「『花咲か爺さん』にも真理は書かれている」「『7つの習慣』にも真理は書かれている」「『嫌われる勇気』にも真理は書かれている」とも、ついでに申し上げておきたいです。


「伝える」って、難しいですね…。