前回の記事を書きながら悟ったことがあります。

私の「愛」とはその程度のものなのだな、と...

家族が何か罪を犯したとしたら、嫌悪を抱かずにはいられない。

悪態をつかずにはいられない。家族にですらそうなのですから、赤の他人には尚更そうなのでしょう。

自分の愛はその程度で、おそらく今のままだと、これ以上愛を育てることはできないのだと気がつきました。

でも、これは想像でしかないのですが、おそらく、親になったら違うのでしょう。親の立場になって自分の子どもをみるとき、おそらく、今の私が理解することのできない思いと態度で、罪を犯した子どもに愛の形を示すのでしょう。


この事に気付いて初めて、私は自分の子どもを育てる意味を知りました。

私は、四大心情圏とは、愛を学ぶ方法の一つでしかなくて、必ずしも経験する必要はないと感じていました。家庭をもたなかったとしても、社会の中で為に生き続けていれば、愛は育っていくものだろうと思っていました。

でも、少なくとも私にとっては、その方法では育てられる愛に限界があることがわかりました。


結婚せねば、ですね笑


分派の中では分派の中で祝福があり、当然、分派の中でお見合いと言いますか、マッチングが行われる訳ですが、私は分派の中で祝福を受けることをポジティブには捉えていませんでした。

今まで多くの人の人生を壊してきたこの式に出て、純粋に喜べる気がしませんでした。どんなに着飾ってこの式に出たところで、きっと私は、この式によって傷ついた人のことを考えてしまう。分派の式に出たところで、分断されてしまった家庭連合のことを考えてしまう。


神はこのような状態を純粋に喜んでいるのだろうか?親として、兄弟の片方が幸福であったとしても、もう一人の兄弟が不幸せであったとしたら、心から喜べないのではないのだろうか?


そんなことを考えていました。

そんな考えを、家庭連合の、すでに祝福を受けて子女も授かっている友人に話をしました。すると、こんな回答が来ました。


確かに、もし兄が幸福であったとしても、弟が不幸ならば、弟が気になって心から兄の幸福を喜べないかもしれない。でも、それを気にして兄が幸福になることをためらっているのなら、兄にそうさせてしまった親としての自分を恨む。だから兄には、「自分は幸せだから、弟のことを考えて」と言ってほしい。兄には、先に幸せになってほしい。


なるほど~って思いました。

考えたこともなかったです。

そうか、私は幸せになった方が良かったのか、と素直に納得しました。


なんかこう、自分的には、幸せになろう、自分の好きなように生きようって思っているつもりなんですけど、人と話したことで、やっぱりまだ残っていることに気が付きました。

自分は幸せを求めてはいけない、みたいな感覚...

簡単に消えるものではないのですね。まあ、それに気付けて良かったです。消す努力をし続ける必要があると、わかったことが進歩です。