久々の投稿となりました。

力をぬいて、ゆるっと書こうと思います。

毒は相当含むかもしれません…


家庭連合の方で聖酒式があったようです。私は分派なので、全く関係のない話ですが…

まあ、分派と言えど、聖酒式はありますね。これを飲まないとうんたらかんたらって聞きますね。

現役さんには申し訳ないですが、個人的にはアホくさいなと思ってしまいます。

聖酒を飲んだら誰に赦してもらえるんでしょうね。

神様?霊界?それらが赦したと、何をもってわかるのでしょうか?赦されたとしたら、赦される前と何が変わるのでしょうか?

もし変わるとするならは、それは、「聖酒」というものを信じている「コミュニティ内の人間の目」ってところでしょうか。

それに付随して自分の心構え的なものも変わるかもしれませんね。

ただ、自分の心を変えるのも相当難しいのではないかと思います。自分自身が罪だと思っていることが、罪ではなくなったとか、赦されたとか思うのって、相当難しいことだと思います。

だって小さなコミュニティ以外の人の目は変わらないですよ。過去は変わらないですよ。もしその罪が相手を傷つけた罪ならば、相手の傷が消えるわけではないですよ。

そんなことを思って罪悪感が消えないのなら、結局のところ、聖酒の効果とは、「特定の小さなコミュニティ内の人の目が変わる」というだけのもので、それが真理なんじゃないでしょうか。

上記の内容は、聖酒を飲んだ本人目線の話です。聖酒を飲んだ他人の罪に関しては、自分は、好きなように言えますね。自分が聖酒を飲んだ相手に対して、罪を許す、もしくは、その人を受け入れるような心の広い人でありたいなら、ポジティブな声掛けをすると思います。

そんなことは許されない!間違ってる!と、正義感を振りかざしたいと思えば、その人が何をしたところで、断罪をしていくでしょう。

だって私はその罪を侵した人間の人生に責任をもつ立場ではないのですから。その人が前を向いて生きようが、自分の罪に苦しみながら生きようが、実質的には、私に何の関係もありません。何の関係もないので、なんとでも言えます。善悪を基準とするのではなく、その人が「好きか嫌いか」という判断基準で言葉を選ぶでしょう。


では、罪を侵した人間が自分の家族だったらどう思うのでしょうか…

おそらく私は、馬鹿だなぁって思いながら、軽蔑の念を抱きながら、それでも関係を完全に断つことはできないのだろうと思います。困っている事があれば悪態をつきながらでも手を貸すのだと思います。薄っぺらい励ましの言葉をかけるのはアホくさくて、黙って、付かず離れずの距離を取ろうとするのだと思います。


「家庭は愛の学校」だと言われますが、私の愛はその程度のもののようです。その程度の愛ではありますが、できるだけ、家族に対する愛の形を、赤の他人に対しても同じように表現できる人間でありたいと思います。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村