ブログに来てくださりありがとうございます。


今回は、アベルとカインの関係について書いていきます。


教会に対する批判が多めの内容となっていますので、その点ご了承ください。


アベルとカインの話とは、責任についての話だと思っています。


誰に責任があるのか、責任とは何なのか、責任をもつ、責任をとるのはどういうことなのかについて語っているのが、アベルとカインの話だと私は考えています。


アベルとカインの関係について考えるとき、よく似ているのが、職場の上司と部下の関係だと思います。


上司とは、より責任を与えられた、上の位置に立つ者です。


「より責任を与えられた」というのが重要です。


下の者に命令できるという意味ではありません。下の者より偉いという訳でもありません。


責任をもつ人とは、物事の達成のために自ら動いていかないといけない人です。そして、物事が達成できなかったときや、問題が起こったときに、後始末をする人だと思っています。


部下が失敗したとき、「責任は上司にある」とよく言われますが、部下が失敗して発生する会社の不利益の後始末をするのは上司である、という意味だと思っています。


上司は、会社全体が向上していくように自ら動くことが求められます。


そして上司は、部下が会社の不利益になるような失敗をしないように、指導をし、失敗してしまったときには、一緒に頭を下げたり、改善策を考えていったりするものなのだと思います。


私はこの関係こそが、アベルとカインの関係から学ばなければいけなかったことなのだと思っています。


原理で語られるアベルとカインの話だと、アベルが神側だということが強調されていますが、私は、「アベルには責任があった」という意味だと解釈しています。


神側であるアベルは、神が祭物を受け取らなかったカインに責任をもち、神がカインの祭物を受け取れるように、カインや神と話し合わなければいけなかったのではないでしょうか。


そのようにする責任があったのではないでしょうか。


それができなかったから、殺人という、アベルにとっても、人類にとっても不利益になる出来事が起こってしまったのではないでしょうか。


そのように考えたときに、教会は、今までも、現在も、アベルとしての責任を果たしているのだろうか、と疑問に思ってしまいます。


教会幹部、教区長、教会長と呼ばれる人達は、食口達を正しく教育してきたのでしょうか?


今こうして世間から叩かれているときに、食口個人の責任にせず、自分の責任だと受け止めて、真摯に頭を下げたといえるのでしょうか?


今、教会が不利益だと感じている原因が、果たすべき人の、果たすべき責任が、果たされていなかったから、と考えることはできないでしょうか?


上司と部下の関係はアベルとカインの関係によく似ていますが、一点違いがあるとすれば、アベルとカインの立場は変動する、ということです。


アベルとは、「神側=責任がある人」だと思います。そして、責任とは、自ら宣言することによっても、もてるものだと思います。


教会の上層部の人達を批判する内容を書きましたが、自分がアベル、即ち、神側の人間であろうとするなら、組織や、形式上の上の立場の人達を批判している場合ではないと思いました。


私は、神が救いたいと願う人達に対して責任をもちます。そのようなアベルになりたいと思います。


ここまで読んで頂き、ありがとうございました。