ブログに来ていただいてありがとうございます。

お父様について思うこと①の続きを書きます。

まず、「お父様は世界平和の為に活動していたのか」という点についてです。

それは、していたと思います。あくまで「思う」程度です。

具体的に何をしていたのか、人様に説明できるほど、自分は、アボジが実際に何をしていたのか知りません。

また、教会等で聞く平和運動の内容が、事実であるかどうかを確認する術は私にはありません。

アボジが行っていた平和運動の質が、その他の慈善団体とどのように違うのかも、よくわかりません。

そして、普段生活している中で、一般人の視点から見て、アボジ、もしくは統一教会が、世界平和の為に活動している、という話が聞こえてくることはありませんでした。

結論を言うと、自分は、「わからない」というしかありません。

ただ、自分がもっている人生哲学の一つに、「人間は案外、わからないものを信じて生きているものだ」というのがあります。

義務教育で習う歴史の内容を、私はこの目で見たわけではありません。こういう歴史があったと言える根拠を、説明できるわけでもありません。義務教育で習う理科の内容も、私はすべて実験して確かめたわけではありません。

先生がそう言ったから。周りの人の多くがそう言っているから。国が認めた教科書に書いてあるから。テレビで言っていたから。ネットにそう書いていたから。専門家と言われる人がそう言っているから。自分以外の誰かが研究して、そうなったから。

おおよそ、そのような理由で自分は知識を吸収してきましたが、ほとんどの人もそうなのではないでしょうか?

自分が知っていることの中で、「本当に確かなこと」って、ほんの数%なのではないか、と思っています。

宗教をしている意識がない人が、信仰者に対して、「信仰をもっている人は盲目的になっている」と感じることがあるかもしれません(熱心すぎる人が盲目的になっていることは否定しません。実際それで問題が起こっています)。

しかし自分に言わせれば、ほぼ全ての人が、ありとあらゆる情報の中から、たいして根拠のないことを「信じるか、信じないか」の選択の中で「信じる」方を選んで知識を得ているので、それも「信仰」と言えるのではないか、と思うのです。

私は、アボジが世界平和の為に活動していたかどうか、実際のところはわからないけれど、していただろうと信じています。


次に、「アボジは人格者だったのか」ということについてです。

これに関しても、アボジと実際に関わったことはないので、わからないと言うしかありません。

ただ、活動内容だとか、みことばに書いている内容を見る限りは、「より多くの他者の為に生きたい」という強い意志をもった方だったのだと思っています。

私は、より多くの他のために生きることができている人は、必ずしもいい人に視える訳ではない、と考えています。

また、より多くの他の為に生きることができている人は、好き嫌いの観点で、人からの評価が大きく二分される人なのではないかと思っています。

そう思うようになったのは、自分が働いている会社の社長の姿を見てからです。

彼は上辺の姿を見ると、とても、いい人には見えません。言っていること、やっていることがよくわからない、と思うことが多々あります。会社運営についても、社員から批判を買うようなことをしています(こんなことをここに書いて、社長ごめんなさい)。

社長がより多くの人の為に行動していると理解し、それに共感できる社員は、今も会社に残っています。それを理解できない人は、何かしら揉め事を起こして辞めていきました。

私はアボジにあったことはありませんが、社長の姿を見て、「もしかしたらアボジは、この社長をもっと強烈にしたような人だったのではないか」と想像してしまうのです。

そう思うと、「じゃあ悪く言う人だっているよね」と思う反面、「人に理解されないぐらい大きな規模で、遥か遠くの未来を見据えて、他人からどう思われようとも、純粋に自分が思う『為に生きる』生き方を通したのではないか」と思ってしまうのです。

最後に、アボジは、理想の夫、理想の父、理想の祖父になれていたかどうかという話です。

少なくとも、自分のモデルにはしません。アボジが残した、現在の文家を見れば、「こういう家庭を作る人になりたい」とはとても思えません。

これが、私が「アボジ」について思うことでした。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

アボジの全体像についてはこのような感じですが、原理やみことばについても、今後、細かく言及していきたいと思います。

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