「為に生きる」


善か悪かと言われたら、これは疑いようもなく善だと、今も、昔も思ってます。しかし、原理を100%信じていない自分としては、色々と付け加えたい内容があります。


私は、この世の人や食口が言う、「善」も「悪」も、存在しないと思っています。


存在しているのは、霊的に成長し続ける魂と、魂が入った器だけです。それらの成熟と未熟があるだけです。


成長段階が上の存在が、成長段階が下の存在を見るときに「悪」に見えて、逆に、成長段階が下の存在が上の存在を見るとき、「善」に見えるのでしょう。


話がずれてしまいましたが、要するに、「為に生きる」という行為や、それを行うときの心情は、霊的成長に伴って、内容が変わっていくのだと、私は思っています。


子どもの成長が、それがよくわかる例かと思います。


幼い子どもは、自分がほしいおもちゃを目の前にしたとき、最初は、「分ける」「貸す」という発想はありません。大人が仲介に入ることで、それらを学んでいきます。


でも、最初はそれを喜んでするわけではありません。「大人から言われたから」「貸さないとおこられるから」などと思いながら、分けたり貸したりできるようになります。


そして次の段階で、自ら喜んで分けたり貸したりするようになります。分けたり貸したりするだけでは満足できず、全部をあげようとすることもあります。相手が喜ぶことに、喜びを感じるようになるからです。


みことばで、「与えても与えても、まだ与えたいと思うのが真の愛である」そんなニュアンスの言葉があったかと思いますが、「相手が喜ぶから自分のおもちゃを全部あげる子ども」が、まさに真の愛を実践している姿、すなわち、「為に生きる」状態だと思います。


私は、「為に生きる」には、まだ更に上の段階があると思っています。それは、「いつ、誰に、何を与えるか」です。


ここからは、心情だけでなく、知的な面でも成長していくことが必要です。


自分がほしいおもちゃが、必ずしも相手が欲しいおもちゃだとは限りません。相手が欲しがっているおもちゃが、必ずしも相手を満たしてくれるおもちゃだとは限りません。相手におもちゃを渡すべきタイミングが、必ずしも「今」というわけではありません。


相手に、天から見ても適切と言えるおもちゃを渡す為には、相手を観察する力が必要でしょう。そして、発達心理学、教育学、保育学などの知識が必要でしょう。簡単に渡せないものなら、渡す為に、行動力、実践力が必要でしょう。



つまり…

「為に生きる」には、段階がある

「為に生きる」ためには、心情の世界だけでなく、知識や技術が必要である


ということを書きたかったのです。


長くなりましたが、ここまでお付き合い頂きありがとうございました。









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