何故!人は離れていても 

「いのち」を強く感じられるのか。

 

 

※・・・書き始めたのは10月31日ですが投稿は選挙終わったのち11月1日です。

 

 

 有る塊の人達には、「もう死んでいる。」と思われても

                               何故!生きている確信が持てるのか。

 ご家族皆さんの心の内が分かる訳では有りませんが、自身と照らし合わせて考えます。

 

  其々が生死と、どう向き合ってきたか! 

                     関わってきたか!により違う経験が人には有る。 

 非日常の生活、シベリア抑留 強制労働からの生還…。

                            強制労働の後ゆっくり風呂に浸かれた訳が無い。

零下40度になる朝、労働に出かける前に毛布の四隅を綺麗に揃え なるべく小さくたたみ、外に積み重ねる。帰ってきたら、各々が一枚ずつ取り広げバンバンと払うと 白い雪の上が

ノミとシラミで真っ黒の山になる。どれほど冷たくとも清潔で有る事が生き残る手段であった。

 

 体の大きさに合わせて決められてきたのが寸法である。尺ざしも、裁縫用と建築用の金尺も

西欧のセンチやインチ、レンガの大きさは手のひらの大きさにより決められている。明治の頃は西欧基準だったが日本も昭和の頃はすでに日本の大きさで在った。

線路のレールも何もかもが大きい、

 ろくな食事も無く栄養失調状態で、自身の手のひらより大きいレンガを握りきれず 角で右手の人差し指の第二関節から上部を骨が見えるほど、肉をそぎ落す事もある。それでも、焼き・清潔に保つ事が重要だったようです。

 少なくても傷を負った時は仲間同士かばい合ったそうです。どんな時も最低限人間としての心を失わなかった。 綺麗ごとではない 仲良く助け合ったとも違う、死線のギリギリのところで人で有ったと云う事なのだと私は感じました。

      沢山の方が戦死されましたが、生き延びた抑留者は帰ってきた。

  生き残る、生にしがみ付き「家族の待つ国に帰還する。」と強い意志を持ち生き延びた。

                     国が、迎えに行ったんです。

  ”人には寿命の限りが有ると思ってくれた政治家”が

                     ”社会全体がその決定を後押しをして”くれたんです。

 貴方の周りにも聞いてみて、シベリア強制抑留者の子供や孫・・・

                                      今や曾孫、玄孫まで居ます。

 

 

       人は諦めない・・・生きる事を、

         自身の意思とは関係なく非日常に追いやられた時は余計に、にで有る。

 

 

                          次回・・・生方さんの発言が齎した日朝の分断

 

 

      

 

         特定失踪者470名・・・警察発表900名・・・拉致被害者17名+2名