繋ぐ

 

 政治家や言論人が政治屋や政治ゴロ達(私を通り過ぎた政治家たち)では、国は続かない。

歴史書や本で時代を覗くと答えが見えてくる・・・・・。

 

誰が・・・・・

「守るべき もの を・・・」

命を危険に晒しながら・・・・・

有難いと胸が熱くなるほど・・・・・

何を、今に繋いだのか・・・・・

 

安心して歩け、食べ、仕事を選べ、この国の天才達が紡いだ文化で呑気に・泣き・笑い・唄う事が出来るのは、

「国の芯を見失う事無く」(万世一系 男系男子)繋ぎ続けた英雄たちの功績です。

 

               ・・・・・心・・・・・志・・・・・忘れてはいけないと想う・・・・・

 

 

帝国憲法明治二十三年十一月二十九日施行

 

 オーストリアのシュタイン先生が、 

「憲法は、その国の歴史文化の当たり前を熟知し創るのが憲法で有る。私は日本の歴史文化は解らない、君達が歴史文化に根差した憲法を創るべきで有る。」

”この珠玉の勲等”とも云える授業を初めて受けたのは伊藤博文で有り、それに続く大勢の有能な者達で有った。

 

井上毅

 

 この方を知ると、解らない事はあるのだろうかと思うほど世界や日本文化にも歴史・法・ありとあらゆる学問に精通し天才と呼ぶに値する人。せめて運動神経は音痴で有れば面白いのにと思うが、やはり文武両道に優れ・・・まだヨーロッパの田舎の”法”とは名ばかりの国際法も熟知していた。

 

伊藤巳代治

 

 志のある政治家で有り、経営手腕にも優れ、武人としても戦略家で有り、しかも白洲のようにでは無く「白洲は伊藤巳代治のようであった。」・・・・・(ここで白洲次郎は不適切なのですね。真反対だとしても伊藤巳代治ほうが上のようです。)

・・・・英語を巧みに操って影響力工作は巳代治の方が上かなと思ってしまう、これぞ知性と称えたい人。・・・まだヨーロッパの地域法で名ばかりの国際法も熟知していた。

 

金子堅太郎

 

 最高の法学者で有り英国憲法史を熟知し、世界の知識人との人脈も広く論客としても理論的であり舌鋒も鋭い人で有る。・・・もちろん”ウエストファリア体制”も熟知し、ヨーロッパで生まれたばかりの概念で本当の意味で国際法と呼ぶにはマダマダの時期で有る事を、十分承知して居た。

 

 夏島にて、

海の中から上がり・・・・・4人で水平線を睨み口を真一文字に結び、今は穏やかな凪の海が戦場にならない為に・・・・・どう文明国として認めさせるか。

 

博文・・・

「日本は今まで西洋の概念を翻訳してきたが、”十七条憲法 聖徳太子憲法”が有り、国柄日本の古事記を翻訳して、西洋に解るように憲法を創ろう。」

そこで博文 毅 巳代治 堅太郎があふれ出る知識を、両の手で8反の京友禅”花小紋”の反物をシュルシュルぶわ~っと広げたように止まらなく話が広がる。

 

色白の堅太郎の肩が日に焼け痛く成る。皆も子供の頃と違い白くなった肌が悲鳴を上げて居た。

旅館に帰り、この状態でも 議論  評議 を何日も何日も続ける。

 

毅・・・

「”しらす”の概念は言葉を変える事無くそのまま使いたい。」

そして伊藤博文は『憲法義解』を出版す。

 

新渡戸稲造が日本と世界の懸け橋になったように、ヨーロッパのマナーを紳士として身に付けた者達が、

帝国憲法発布しウエストファリア体制を使いこなし愚直に条約を批准した事によって、西欧とアジアの懸け橋となった。

当時アジアで唯一日本国だけが、憲法と条約を石に齧りついても手放す事無く守り、アフリカ亜細亜の文明の発祥の地としての誇りを守った。

 

 書いた物が尊いのでは無い、

何千年と続く其処に有り続ける 「国、民」の為に祈り続けてくださる「国体」を・・・・・

愚直に石に齧り付き守り・・・・・

今に繋いで下すった事に感謝と敬意しか有りません・・・・・・・・。

 

明治42年 ハルピンへ・・・

ロシアと満洲国との非公式会談に向かう伊藤

 

いつも、

人懐っこい顔で「行って来る。」と言う伊藤が梅子へ「留守を頼む。」と言った。

ふっと体と頭はそのまま瞼だけ、視線を下げる梅子に気づいた金子堅太郎が、明るい良く通る声で「土産待って居ます。」と笑顔で言って。梅子は、ようやく笑顔で彼を送り出す事が出来た。

 

                              二頁目は後程、夜中に・・・・・