これまでの続きです。
そしてこれで最後になります。
不安になったお金のことについては、
更にどんなことが考えられるかを別に書き残します。
がんセンターのエスカレーターからゴリさんが転落したのは2023年の1月のことです。
年を越して新年を迎えることが出来ないと余命宣告を受けてから2ヶ月。
ゴリさんは新年を生きて迎えていました。
食べたい物リストを渡されたのは三が日が終わった頃でした。
転落事故も抗がん剤が終わる前に、
私ががんセンターで待っていたら起きなかったことだと自分を責めて悔やみました。
私は少しでも自分の身体が楽になるように、
抗がん剤の数時間は帰宅していました。
自分を優先したのです。
この落下事故がゴリさんの命の時間を短くしたと思っています。
これが今まで誰にも言えずにいた私の正直な気持ちです。
腹水は抜いてもすぐに溜まりました。
この時は何故急に話が変わって余命宣告になったのか
私には主治医の話が変わったことが理解出来ませんでした。
今ならわかります。
ゴリさんは立ち座りまで私の介助が必要になってきていました。
理学療法士さんに相談して、
私でも負担を少なくして介助出来るように教えて貰ってました。
起こして貰おうと何もしないゴリさんに、
「自分で立つんだよ。私は補助だけだよ。」
と怒りながら踏ん張っていました。
立てないなら立たせてあげたい
それが本心でした。
でも、私の身体は思い通りには動いてくれませんでした。
物体と化したゴリさんが人間ではなく、
手足を奪われた達磨のように感じていました
2剤目の抗がん剤で足は浮腫み、
エスカレーターからの転落事故で歩くのが大変になりました。
身体に出来た傷はなかなか治らず、
出血しやすくなっていました。
ついに私が運転する車に乗り降りすることも出来なくなりました。
介護タクシーが使えるようにケアマネさんが手配して下さいました。
要介護は1のままでした。
たぶん要介護1では介護タクシーは使えないのだと思われます。
介護タクシーの社長さんがとても良く福祉のことをご存知でした。
私が障害者手帳を持っていたので、
手帳を使って移動支援を受ける方法があったそうなんです。
介護保険になってしまったので、
それを使うことが出来なくなってしまったと知りました。
全てが申請しないと使えません。
申請する時も何があるのか知らないと不利なことになることがあることを知りました。
介護保険になる前に障害者手帳で移動支援を100時間とかお願いする方法があったと介護タクシーの社長さんから聞きました。
ケアマネさんも知らないことでした。
私の訪問の理学療法士さん達も全く知らなかったと今回お話をしたら驚かれました。
介護タクシーで通院して、
車椅子で血液検査や診察室に行きました。
ゴリさんに「家が良いんだよね」と主治医が聞いていたのは、
意思確認のためでした。
ゴリさんはがんセンターの食事や看護師さん達が嫌いでした。
ゴリさんの耳が聞こえなくなってしまったことを理解していなかったからです。
家族として私が世話を出来ないからお願いするのに、
ゴリさんが温かい看護を受けられてなかったことは身を切られるより辛かったです。
主治医の患者ファーストの優しさが私を更に追い詰めていきました。
家の中の移動や身の回りのことも出来なくなってしまったゴリさんは、
私にとって大きな大きな負担になっていました。
大怪我をさせてしまったらどうしようと不安の中での暮らしでした。
気の休まる時間がどんどん減っていきました。
感覚は鋭いナイフのように尖っていきました。
同じ膵臓がんの家族のブログを読んで、
献身的に支えている奥さんやそれを応援しているコメントにも私は追い詰められていきました
ゴリさんと決めていた【ひとりでトイレに行けなくなる】時、
この時がきたら緩和ケアへ行く。
最期は病院で痛みがなく辛くないようにして欲しいのがゴリさんのたったひとつの願いでした。
必死にトイレに行くゴリさんの姿を悲しい気持ちで見ていました。
家にいて欲しいけれど、
何もかも私が補助しないとゴリさんの生活は成り立たない。
私のレミケード点滴の日は、
家にゴリさんをひとりで置いて行くのが心配でたまりませんでした。
夜中もトイレに起きては転倒していました。
トイレだけはゴリさんがひとりで行っていたのは、
【トイレにひとりで行く】ことが家にいるギリギリの約束だったからです。
冷たいようですが、私はトイレには手を貸しませんでした。
でも、ゴリさんは自分からは最後まで辛いと言いませんでした。
私は2022年の2月の私の訪問看護で看護師さんと話をして、
翌日の火曜日に主治医に緩和ケアへの入院を頼みましょうと背中をを押して貰いました。
看護師さんは私の説得のために、
この日は数時間を使って下さいました。
午前中に3回も階段からの落下や転倒が続きました。
私は目の前でふら〜っとスローモーションで倒れていくゴリさんを支えることが出来ず、、、。
気力までも失っていきました
これ以上怪我をさせたくなくて、
ゴリさんを守るために覚悟を決めるしかなくなっていました。
ゴリさんの主治医からもゴリさんの転倒に巻き込まれないようにと言われてました。
私が巻き込まれると人工股関節が入っているので、
とても危険でした。
私が疲れてしまった時は、
「緊急避難としてゴリさんをがんセンターで預かるよ。」
ともゴリさんの主治医からは言われていました。
本当は1月の終わりには、
私は【助けて】と声を出せずに叫んでいました。
毎日の着替えも家の中の移動も、
全て私がいないと転倒してしまうようになっていたのにです。
入院すると動けない、
食べられない、
耳が更に聞こえなくなる、
ボケ老人みたいになってしまい、
意思疎通が困難になって帰ってきます
家にいたら私が毎日話しかけます。
食事も食べたいものや食べられそうなものを工夫しています。
入院は悪化させることになることに気がついてました。
命を短くしてしまうと思うと、
助けて欲しいなんて口が裂けても言えませんでした。
訪問の理学療法士さんや看護師さんやケアマネさんが、
私が看護相談していたがんセンターの看護師さんとずっと連携してくれていました。
バレンタインデーの夜、
主治医から電話がありました。
ゴリさんから目が離せなくなっていました。
電話の私の様子から、
「明日は入院するつもりで支度して通院をして下さい。」
と言われました。
この時主治医が何を伝えるために電話をしてきたのか
私は覚えていません。
1時間弱で最後の入院の準備をしました。
ゴリさんには明日入院のつもりで来てねと主治医からの電話だったよと伝えました。
ゴリさんは理解出来なくて、
明日入院するよと言う私を不思議な顔をして見ていました。
その目に見つめられることが辛くて、
私は目をそらしました。
ゴリさんを姥捨山に捨てるような罪悪感でいっぱいでした。
健康な奥さんであったなら、
まだ家にいられたであろうと考えると私は最低だと思いました。
心の底から「ごめんね。」と謝っていました。
ゴリさんが2月15日に最後の入院をして、
私の介護は終わりました。
もっと家にいられる方法はなかったか
今でも考えることがあります。
悔しいけれど私はもう身体が限界を超えていました。
それとは反対に頭はフル回転して、
研ぎ澄まされたナイフのように冷たく鋭くなり、
決断を下していました。
ゴリさんとの最期の約束を守り続けるために。
ゴリさんが入院して、
緩和ケア病棟にお世話になって私の介護は終わりました。
私はこの時も緩和ケア病棟から退院してきた時のための準備をしていました。
まだ諦められなかったんです。
私の身体がもっと大変になるゴリさんのお世話を出来るように、
休めながら身体を作ろうと努力していました。
決してきれいごとなんかじゃなかったことです。
金銭的不安もありました。
ゴリさんが最期の入院の朝私に聞きました。
「ミリーさんが生きていくお金は大丈夫か」と。
泣きそうになるのを隠しながら、
「私は占いでもお金には困らないと言われているから、大丈夫。」と笑いながら言いました。
ゴリさんはホッとしたような顔をしてました。
私のことを心配しているゴリさんを私は主治医の元へと介護タクシーで連れて行きました。
おわり
正直な事実とその時の気持ちを書きました。
身体が健康ではない私が出来たギリギリの闘病です。
どんなに頑張っても、出来ないことはありました。
緩和ケア病棟で迎えた死は、
私を救ってくれたと同時に心に大きな傷を残しました。
ひとりになることがとても怖かった私を支えてくれた先輩ブロ友さん(先輩と呼ばせてね。)がいました。
その人のおかげで、
ひとりになることも怖くなくなりました。
心から感謝しています。