おはようございます。
ミリーです。







このブログの続きです。



ゴリさんは訪問看護と訪問理学療法を受けることになりました。

理学療法については、

とても抵抗をして馬鹿にしていましたキョロキョロ

出来ないことがなかったからです。

YouTubeなどを見て、

家で出来る運動を必死にやっていました。

後になってからゴリさんはこれが1番無駄だったと言ってました。

理学療法はすごい!!とも言ってました。

そして理学療法士さんをとても信頼していました。

足の浮腫みが辛かった時も、

一生懸命楽になるように施術してくれましたハート



末期癌で余命は1年生きられる人は半分だと告げられていました。

とても幸運なことにゴリさんには痛みが全くありませんでした。

膵臓がんが胆管に転移して胆管を潰してしまい黄疸が出たのが見つかるきっかけでした。

はじめは胆管と膵臓がんがそれぞれ原発のとても珍しい癌だと総合病院では言われました。




転院したがんセンターでは、

膵臓がんの転移であると診断をされました。

膵臓頭部に3cmの腫瘍がありました。



「手術は出来ませんか!?

「放射線治療は出来ませんか!?

ステージ3の場合は抗がん剤治療の後、

手術が出来るケースもあると聞きました。

でも、大概はやらないと、、、。

その理由は手術をしても助からない、必ず再発をするからと言われました。

でも、抗がん剤で小さくなったら手術や放射線が出来るかもしれないとこの時は思っていました。

私は涙すら出ないくらい大きなショックの中にいました。

先行きがわからない私の病気。

1人しかいない娘のことを考えると涙さえ出ませんでした。

泣いたら何もかも失ってしまいそうでした。



あくまでも延命しかない!

そう告げられていました。



抗がん剤は思いがけない副作用が出ました。

11月末から始まった抗がん剤で、

ゴリさんの聴力、耳は聞こえなくなっていきました。

本人は耳が聞こえなくても困りませんでした。

ただ、主治医との会話も家族の会話も話す方が気をつけないと成立しなくなりましたタラー

ひとりで通院しても主治医の話が聞き取れず理解出来ないため、

私はいつも通院に付き添うしかなくなりました。

聞こえているふり、わかったふりをされることがとても大変でした。

周りを混乱させました。



ゴリさんは夏にワクチンを2回接種して、

順調だった抗がん剤治療にアレルギー反応が出ました。

アレルギーが出てしまった抗がん剤を抜いて続けることになります。

私はワクチン接種については、

ゴリさんにかなり強く言いました。

正直言ってしまえば、

末期癌なんだから怪しいワクチンをする必要ないのではないか!?

今でもそう思っています。



ワクチン接種するまでは、とても順調でした。

秋には診断をされたから1年となります。

夏が過ぎても痛みもなく、

本当に自分は癌なのか!?

ゴリさんはまだ信じられずにいました。



これは主治医にも話をしてないことです。

ゴリさんが末期癌だとわかってから、

私が癌になったら飲もうと思っていたサプリを3種類飲んで貰っていました。

特に最後までゴリさんが緩和ケアでも欲しがったサプリはプロポリスでした。

プロポリスは癌学会でも効果があると発表されていたからです。

プロポリスがないと食事が気持ち悪くなってしまい、

食べられなくなりました。



食欲がなくなった時は、

私の経験からステロイドのことを主治医に提案してステロイドでゴリさんの食べたい気持ちを応援することになりました。

ステロイドの悪い作用の1つが、

卑しすぎる食欲だと私は思っていたからです。

それを逆手に取った食欲増進です。

でも、これは余命宣告されたから出来た捨て身の投与だと私は考えてもいたんです。

生きられる人には決して、決して進められることではありません!



ゴリさんはワクチン接種のための休薬期間に、

胆汁を出すためのお腹の外へのチューブを抜く時に膵臓がんがチューブに着いたままお腹の皮膚下に移動して大きくなってしまいましたタラー

この転移ではなく移動して埋め込まれてしまった癌細胞は手術して貰えました。

このままにしておくと、

癌細胞が花咲くように皮膚下から吹き出して、

予後がとても悪くなることが想定出来るからでした。




2021年の4月からはがんセンターでは、

患者の受け入れも手術もコロナで止まっていました。

10月に手術することが決まりました。

ただ、手術などにも制限がかかっていた為当日までキャンセルがある可能性はありました。



ゴリさんはとても怖がっていました。

わざと明るく簡単な手術だよって伝えてました。

この手術のためにワクチンに続いて、

抗がん剤を休薬することになりました。

そして1ヶ月後に、

余命1ヶ月半を告げられることになります。

この皮膚下の癌細胞を手術して、

退院した時からゴリさんは食欲はあるものの食べられなくなりました。



あまりにも食べられなくなり、

退院後10日ほどでまた再入院になりました。

十二指腸の入口にも腫瘍が広がっていたことがわかりました。

金属ステントを入れたことで、

ゴリさんの食事は大きく制限されました。

こんなことなら金属ステントは入れなければ良かったと何度も思ってしまいましたタラー



あれほど順調だった抗がん剤ですが、

だんだん効果がなくなってしまい次の抗がん剤へと切り替わりました。



食欲はあって食べたいものがたくさんあるものの食べられない状態でした。

この時でも痛みなどは全くありませんでした。

お腹の手術痕は気になっていましたが。



私はゴリさんの抗がん剤が隔週から毎週になってから、

通院の付き添いが耐え難いものとなっていました。

血液検査から診察に呼ばれるまで、

毎週毎週数時間ただ待ったからですタラー

ひたすら安静の時間は、

理学療法や作業療法をいくら頑張っても私の気力さえ奪う痛みの憎悪になりました。



もう、通院の付き添いが辛くて辛くて堪らなくなっていました。

精神的、身体的な限界が近づいていました。

身体の痛みは心の痛みを麻痺させました。

ゴリさんが膵臓がんのステージ4だと知った私の整形外科とリウマチ科の主治医は、

「ご主人も大変だけど、あなたの身体のことをきちんと考えなさい。治療は何よりも優先だよ。自分を大切に。」とそれぞれの先生から言われていました。

この言葉がなかったら、

私は決断が出来ませんでした。



私は2020年の12月にはゴリさんも大切だけど、

私の治療も大切だと自分に言い聞かせていました。

何よりも私のレミケード点滴は優先すると春には心を鬼にして決めました。



身体は痛くて堪らず、

ゴリさんの食事はどんどん手がかかるようになっていきました。

でも、私に出来ることは腹水があるため少しでもカロリーのある残渣のない食事を作ることだけだと思っていました。

ゴリさんと家族3人での旅行も考えていましたが、

コロナが怖いゴリさんは家から出たがりませんでした。




理学療法士さんや作業療法士さんにどれだけ助けられたことか?

訪問看護の看護師さんやケアマネさんがいなかったら、

私は逃げ出していただろうと思います。

本来なら知られることのない家庭内での苦しい状況は、

理学療法士さんやケアマネさんによって主治医に報告されていました。

これが、私をこの苦しみから助けてくれました。

決断の後押しになってくれました。




つづく