ムハンマド・アブドゥル・カーデル・ハーテム | スクラップブック+

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URLの貼り付けはやめました、時間が経つとほとんど消えてしまうので。

 

 

 

ムハンマド・アブドゥル・カーデル・ハーテムムハンマド・アブドル・カーディル・ハーテムアラビア語: محمد عبد القادر حاتم‎、英語: Muḥammad ʿAbd al-Qādir Ḥātim、1918年9月3日 - 2015年7月7日)は、エジプト政治家

 

 

アレクサンドリア生まれ[1]士官学校カイロ大学ロンドン大学を卒業[1]自由将校団の一員としてエジプト革命 (1952年)に参加[1][2]

1957年エジプト議会議員、大統領府副大臣、1959年ラジオ・テレビ担当国務大臣、1962年文化大臣、国民指導・観光大臣、1971年副首相兼文化・情報大臣、国民評議会(上院)議長、エジプト・日本友好協会会長を歴任した[1]。この間3人のエジプトの大統領ガマール・アブドゥル=ナーセルアンワル・アッ=サーダートホスニー・ムバーラクに副大統領や副首相として仕えた[2]

親日家であり[2]1972年、のちの政治家小池百合子のカイロ大学編入学を援助した[1]1974年2月公賓として訪日、昭和天皇内閣総理大臣田中角栄副総理三木武夫と会談した[1]1982年勲一等旭日大綬章を受章した[1]

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ロンドン大学卒業。

英国との関係が強い情報機関に通じた人物と見られます。

 

カイロ大学編入時から小池百合子の運命は決まっていたのでしょう。

日本でのテレビデビューもその人脈が働いたと思います。

カイロ大卒と豪語できたのもエジプトからのバックアップが盤石だという確信があったから。

 

カイロ大に入学させることで小池百合子に逃げることができない傷を負わせることに成功したのがハーテム氏。

退学の絶望から救われ、名誉を得ることができたのですが、工作員人生からは逃げることができなくなってしまった。