医療関係のお仕事をしていると
ご遺体に接することも多く、
生と死に対する考えを巡らす機会も多くなる。
篤志献体の組織である白菊会を通し、
私も母校では
御遺族が故人の意思に沿って提供してくださった御遺体に
幾度か対面させていただいた。
御遺族や故人のお気持ちに対し、
筆舌に尽くしがたい程の深い感謝とともに、
責任の重さを強く感じた。
私のような小さき者であっても、
できる限りの方法で、
私なりのやり方で、
受け継いだ思いをどこかに還元できなければと、
強く感じた記憶が鮮明に残っている。
同時にこの方が生きておられた人生がどのようなものであったのか、
考えを巡らす日々を過ごした。
数年前他の施設で、
同じような場所に立ち数日過ごしたことがある。
神聖で静寂な空気の中、
私など全く知らないであろう
多くの御経験をされたご遺体が数体横になっていた。
お一人お一人近くに寄らせていただく中で、
不思議とあるお一人に対してだけ、
強烈なエネルギーを受けた感覚があった。
こんな軽薄な、
さらにはよからぬ感覚をお伝えすることは憚れるが、
そのエネルギーは私の体調に影響を与え、
数分そばにいることもできなかった記憶がある。
一瞬で遠のきそうになる意識をなんとか引きずってそばを離れ、
気のせいかと思いながらそばによるとまた体調が悪くなる。
その時に若輩ながら私が感じ取ったもの。
それは、
御遺体に残されていたものは何らかの想念であるということ、
魂は御遺体には残っていないということだった。
そしてその想念とは、
思いがけずに人生が終わってしまったことに対する
“混乱”
であることが伝わってきた。
確かにこの方、
何らかの原因で突然亡くなったということは
御遺体を拝見すると一目瞭然だった。
この時の経験は、
魂はそこに存在しなくとも想念というものは残ることがある、
という事を知らされることとなった。
想念が残るということは、
決して亡くなられた方の魂にマイナスの影響を与えるという事はなく、
ただただその場に経験・記憶・エネルギーが残るという事のようだ。
数年の時を経て・・・。
ある施設でmummyに会った。
お年を召した女性だった。
その女性は意図的にそうしたのではなく、
偶然の環境によって作られたものであって、
いわば現代人とは奇跡のような出会いとなったことになる。
江戸時代のこの女性は
甕の中で小さくうつむき座っておられた。
小さく組まれた細い腕は何を包み、
穏やかな優しいほほえみは誰に向けられてきたのだろう。
そして再び・・・。
御遺体を介して想念というものが伝えられてきた。
このお年を召した女性、
伝わったエネルギーの特徴から、
心を込めて 「ばっちゃん」 と呼びたい。
ばっちゃんには授かった子どもが5-6人、
幼子から10歳位までの子(お孫さん)の、
まっかなほっぺと笑顔が伝えられる。
しわしわの手で野菜をゆで、
しわしわの手で縫物をしている。
しわしわの手で赤子のお尻を包み込み、
大きくなった息子がばっちゃんの背中に綿入れをかけている。
ばっちゃんはいつも家族のために働き、
家族のために愛とぬくもりを伝えてきた。
家族に愛され、
孫に愛され、
大切な大切なばっちゃんだったことが伝えられてきた。
そこには現代にまで残されているエネルギー、
ずっとそばにいたいと感じるほどの愛とぬくもりのエネルギーが存在し、
温かな幸せな涙が止まらなかった。
人であれ場所であれ、
そして何かの物であったとしても、
やはり強いエネルギーというものは残っているのだろうと思われた。
私たちが現代に生きる中、
この美しき地球上には
多くの経験と共に様々な感情が入り乱れている。
去る時、
全ての悲しみも苦しみも良いものであったと解釈し、
良き想念に書き換えていくことができたなら・・・と切に思う。
そして私にとっては届きそうもないそんな夢を心に刻み、
修行をしていきたいと思うことができた。
Dear mummy ・・・