佐世保から長崎まで、外海地域をめぐった次の日は、島原半島に行くことにしました。
朝7時過ぎ、長崎駅から諫早行の列車に乗ります。車内は高校生で混んでます。
長崎から諫早までの長崎本線は、平地と海沿いの古いルートと、トンネルで山を突き抜けていく新しいルートがありました。
乗った列車は、ほとんどトンネルばかりの新しいほうを通りました。
トンネルを抜けた、途中の市布駅。山に囲まれています。
長崎って本当に山(と島)だらけ。
1時間ほどで諫早に到着。
諫早駅のロータリー。
上から見下ろしただけですが、新幹線開業とともに全体を新しくした感じです。
諫早駅で、島原鉄道に乗り換えます。
島原鉄道の諫早駅。
ここもピッカピカです。
でも、改札を通ってホームに出れば、一気にのんびりしたローカル線の風情に。
ホームのこの写真は、島原鉄道大三東駅。「いちばん海に近い駅」だそうです。
列車は非電化、2両編成。
諫早駅ではそこそこお客さん乗っていましたが、走り出して最初の駅「本諫早」で、おおかた降りてしまいました。
諫早の市街地を出てしばらくすると、左(諫早湾側)にはまっ平らな農地。
このまっ平らな感じは、確かに干拓地。八郎潟を思い出します。
その名も「干拓の里」という駅がありました。
「カントリーエレベーター(←八郎潟で覚えた)」も見える。
有明海を干拓して、広大な農地が造られていました。
雲仙市役所のある、吾妻駅。
このあたりで、干拓地は終わります。
こんどは、有明海が見えてきました。
すごく潮が引いてる。
ムツゴロウがぴょんぴょんしてるイメージが、勝手に湧いてきます…
有明海の向こうには、熊本の方の陸地もよく見えていました。
有明海も大村湾と同様、向こうに陸地が見えて、穏やかです。
列車はず~っと、左手に有明海を見ながら進みました。右側は、田畑と、昔からの集落が続いています。
ふと気づくと、田んぼの向こうには、高い山。
あれが雲仙の山々か。
諫早駅のホームでもPRしていた、大三東駅に到着。
干潮だったので、「海がすぐそこ」という訳ではありませんでしたが、いい眺めです。
黄色いハンカチがいっぱいぶら下げてあった。
だんだん、雲仙の山も大きくなってきました。
三会という駅で。行き違った列車には、蒸気機関車が描かれていました。
島原鉄道は開業が1911年、とても歴史のある路線です。SLは1960年ごろまで走っていたようです。
島原半島は、雲仙から噴出した溶岩でできた半島。
特に半島北側は、溶岩が流れ出したまま、雲仙を中心にコンパスで描いたように、海岸線は円弧を描いています。
島原鉄道もその円弧に沿って走るので、進むとともに、雲仙の見え方が刻々、変化します。
どこが普賢岳なんだろう?どこが近年爆発した平成新山だろう?…と思って見てましたが、結局よくわからず。
島原の町へ入ってきました。
後ろの車両に乗っていたのですが「前の車両に移って」と車掌さんに言われ、言われるままに移動します。
終点の1つ手前の「島原船津駅」で、2両あった車両を切り離しました。
だから前の車両に移る必要があったんだ、と了解。
車両の切り離しを、乗ったまま目の前で見るって、はじめて。
都会の列車だと、運転席にここまで近づけないもんね。
手早く終わりました。
この駅には車両基地がありました。
1両だけになった車両で、一駅分だけ走り、終点の島原港駅に到着。
ホームから見る、雲仙。
島原鉄道、全線乗り通しました!
駅を出ました。
駅前通り。すぐ向こうは、海です。
すぐ港があって、熊本などへ行くフェリーが出ているようです。
島原の町で、レンタカーを借りました。
まずは、町中にそびえたつ、島原城へ。
江戸時代初めに建てられた天守。
明治維新で解体後、戦後に復元されています。
この日は休館中で外から見ただけ。
破風が全くなくて、シンプル。
天守手前の、西の櫓(これも再建)。こちらには破風あり。
西の櫓の奥には、雲仙岳。
城下の眺めです。
お城から海までは少し距離があります。
当時はもっと海沿いに建っていたのではないかと思います。
北村西望による、天草四郎像がありました。
北村西望氏は、今の南島原市出身だそうです。
石垣とお堀は、当時のまま。
お城の周囲には、平坦な土地がひろがり、かつては二の丸、三の丸。
今は学校などになっていました。
学校を抜けた先に、武家屋敷が今も残るエリアがあります。
桝形のところには、井戸の跡。
昔のままの通りです。
道の中央に、水路が流れています。
島原は湧水が豊富で、町をたくさんの水が流れているのが特徴的なんだそうです。
道の両側には、石積みの垣根。
石垣の上に小さな石を積み上げるのは、五島の福江の城下町でも見ました!
この石垣も、よく見れば時代により、切石積みだったり打ち込みだったり。
この石垣はちょっと古い。
武家屋敷がいくつか、見学できるようになっています。
どの屋敷も基本的な構造は同じ。
徒士(かち)屋敷だったそうです。
「一軒一軒の境に塀がなく、隣家の奥まで丸見えだった」とのこと。
90坪の土地に25坪の家。なかなかよろしい物件では?
地図を見ると、道の場所、昔とぜんぜん変わっていないのがわかります。
武家屋敷通りを端から端まで、歩いてきました。
今度は、武家屋敷から少しだけ離れた場所へ。
「鯉の泳ぐまち」。
島原の町中に流れる水路を生かした一帯です。
観光交流センター清流亭の鯉。
湧水庭園「四明荘」に入ってみました。
お座敷と庭園を見せてくれます。
門をくぐると、足元にどんどん水が湧いていました。
その水が流れ込む大きな池では、鯉がゆったりと泳いでいます。
鯉の影が水底に映り、浮かんでるよう。
明治時代のお屋敷。広縁は、池にせり出しています。
縁側に腰かけて、出していただいたお茶を飲みながら、足元をす~っと泳いでいく鯉を眺められます。のんびりできました。
いただいた絵葉書。
昔はこのお座敷からすぐ有明海も見え、四方が開けていたので「四明荘」と名付けられたそうですが、今はかなり海岸が遠くなってしまいました。
四明荘からすぐそば、しまばら湧水館。
ここも築100年というお屋敷。カフェをやってます。
島原名物という「かんざらし」を食べてみました。
島原の清流で冷やした白玉粉のおだんごに、シロップをかけてあります。
素朴でさっぱりとしたスイーツでした。いくらでも食べられそう。
島原城と城下町を楽しんだあと、車に戻って、一気に島原半島を南下しました。
半島の南端に近いあたりにある、島原の乱の舞台・原城跡へ行きます。
原城跡のすぐ横にあるホテル「真砂」。
原城見学の車は、このホテルの駐車場を使います。
ついでにここで、お昼ご飯。
長崎ちゃんぽん、昨夜も食べたけれどまた食べて、また美味しかったです。
原城跡は広大なので、ホテルで電動レンタサイクルを借りました(無料)。
かつて櫓や屋敷が建ち並んでいたであろう所を、登っていきます。
↑写真左側、一段高くなっているところが、本丸。
更地となっているが多いのですが、ところどころ、玉ねぎ畑。
島原の乱のころ、すでに原城はすでに廃城となっていたとのこと(島原城築城のため)。
当時はどんな風景だったのかと思います。
このあたり、白いタンポポがたくさん咲いていました。
本丸正門跡に自転車を置いて、あとは徒歩で登っていきます。
海に面した本丸跡の高台には、大きな十字架が建っていました。
十字架のすぐ横に、天草四郎の碑(墓)。
民家の石垣の中にあったものを、ここに移設したそうです。
天草四郎時貞の名前が刻まれており、十字架がかけられていました。
本丸跡から見る有明海。
写真右端の手前にある島は、島原と天草との中間にある湯島。
ここで、島原と天草の人々が一揆の相談をしたということで、談合島という名前もついています。
破却された石垣の跡。
乱のあと、原城は徹底的に破壊されたそうです。
ホネカミ地蔵。
江戸時代も中期になって、ここにあった人骨を拾い集めて、敵味方の区別なく供養したもの。
原城では、最近の発掘でも大量の骨が出てきています。
原城跡をまた戻っていきます。帰り道には雲仙が見えました。
この広さに建物があり畑もあったでしょうから、城というより、ちょっとした町。
今は何もなく、明るく広々とした土地ですけれど…
レンタサイクルを返却したら、何かのキャンペーン中だったらしく、島原名物のそうめん(乾麺)をいただきました。
レンタサイクルは無料だったのに……、ありがたく、帰宅後にいただきます。
今日は朝からずっと、雲仙岳を麓から見続けてきましたが、いよいよ山に登ります。
南島原の町から、海を背にして上り坂へ。
雲仙岳へ向けて、急な坂道が続きましたが、けっこう高いところまできても民家がありました。
それでもやがて民家が途絶え、道の両側は木々が続くようになり、国道から分かれて、仁田峠循環道路(一方通行の自動車道。入り口で100円払いました)に入りました。
仁田峠第二展望所。
島原の町と有明海を一望できます!
そして、すぐ横に見えるのが、平成新山。
1991年の大噴火で、どう山容が変化したのか、解説してありました。
平成新山は、雲仙岳の中で最も高い山となっていました。
第2展望台から、さらにクネクネ道を登って、第1展望台(仁田峠)に到着。
ここに車を停めて、雲仙ロープウエイに乗ります。
↑写真の左が山頂駅で、右側が山麓駅。距離はそんなに長くない。
(周囲が広大なので、短く見えるだけなのかもしれません)
雲仙は、最初に指定された国立公園のうちの一つ。
昔からの観光地、という雰囲気がします。
ロープウエイからは、垂直にそびえたつ岩が見えました。
ロープウエイの山頂駅に着いて、さらに徒歩でしばらく登り、雲仙・妙見岳の山頂に到着。
有明海、その先は熊本。
南のほう。海の向こうは天草。
そしてすぐ目の前には、普賢岳と平成新山。
噴火から30数年経つのに、一本の草木もない。
山頂からは、かすかに噴煙が上がっていました。
再びロープウエイで山麓に降ります。
ミヤマキリシマが、ちょっとだけ狂い咲きしてました。
ロープウエイ乗り場から、車でしばらく下っていくと、雲仙の温泉街に着きます。
温泉街の道路にも、もうもうと湯気が立ち上ってました。
車を停めて、遊歩道「地獄めぐり」に出発。
高温注意。やけど注意。手をつけないでください。
あたり一面、硫黄の匂い!
今は楽しい観光地ですが、かつてはここで、キリシタンの拷問も行われていました…。
あまりに湯気が多くて、前が見えない。
砂の中からボコボコと湧きだしてくる温泉。
地面もポカポカで、ネコちゃんたちは幸せそうです。
天然床暖房。
もうすぐ夕方です。
雲仙をあとにして、山を下りていきます。
長崎に帰る前に、少し寄り道をしてみました。
諫早湾の干拓地に出て、今朝通った島原鉄道を横切り、潮受け堤防へ。
この堤防の水門を閉め切るか・開門するかで長期間対立が続いた、因縁の堤防。
海の上に一直線に伸びるその堤防の上が、道路となっています。
堤防上の直線道路をひたすら走っていくと、小さなパーキングエリアがありましたので、車を停めました。
全長8.5キロの堤防道路の、ちょうど真ん中あたりです。
今やって来た、雲仙岳の方向。
写真の左手が有明海(諫早湾)で、右側は、かつては海だったのが、淡水化された部分。海に面したほうが、高くて強固な堤防となっています。
海へ向かって、淡水が大きな音をたてて排水されていました。
これから進むほう。(右側が海)
淡水化された、かつての海。浅くて静かな水辺が広がっています。
長崎県に時々来るようになって、山がちで平地の少なさは実感としてわかるようになりました。田んぼが作れる平地、欲しかっただろうなあ…と。
でも一方で、こんなに広大な面積の海を失ってしまって、こんなに自然に手を加えていいのだろうか、と怖さを感じたりします。
なんかモヤモヤする堤防道路でしたが、来ることで、前よりはちょっとだけ、この問題について知ることができました。
対岸まで渡って、すっかり暗くなってから長崎へと戻りました。