ホテルから見る、東萩駅。

昨夜のバスは、駅の背後のあの山を抜けてきたのかな~、と思います。

 

駅の前には、松本川。川の向こうが、萩の城下町。

周囲を山に囲まれ、ここだけまっ平ら。

萩は、川(阿武川)の扇状地に広っていることが、よくわかります。

 

ちょっとだけ、朝のお散歩に出ました。

山陰本線、東萩駅。

東萩駅の次が萩駅ですが、東萩のほうが交通の中心となっているようです。

 

明治になって鉄道を通すとき、萩の城下町の中は通さず、周囲をぐるっと囲むように線路を敷きました。どんな議論があって、そうなったのか…

そのため、今も、東萩駅、萩駅、どちらも町の中心部からちょっと離れたところにあります。

住人にとっては、鉄道の駅まで少し距離があるので、不便さがあるのかもしれませんが…

 

でもそのおかげで、萩の城下町では、江戸時代の町並も地割もよく残されています。

「江戸時代の古地図で今も町を歩ける」

が、萩の売り文句。

 

川向う、町の先に、ぽっこりと指月山が見えました。

今日はまず、あの指月山の麓の萩城址に行ってみるつもりです。

 

ホテルで朝食を食べて、荷物を預けて、萩のお散歩に出発。

萩城址へは、東萩駅前からの「萩循環まぁーるバス」で向かいます。

この赤いのは、東回り「松陰先生」コース。西廻りは「晋作くん」。

松陰にだけ「先生」がつくの…?と思ったのですが。

 

実際、萩の人とお話すると、ほぼ皆さん「松陰先生」とおっしゃるんです!

萩にとって吉田松陰は、それだけ格別の存在なのでしょう。

鹿児島の人にとっての「西郷さん」と同じかも。

 

 

バスは市街地を通って、萩港に出ました。

港からは、萩の沖合に浮かぶ有人島(三島、相島、大島)までの船が出ています。

日本海にこのような島々があること、萩に来るまで全く知りませんでした。

 

港から先は、きれいな砂浜に出ました。

指月山も近づいてきました。

 

萩城跡バス停で降ります。

まずあるのが、旧厚狭毛利家の萩屋敷長屋。

 

母屋は解体されましたが、長屋が残っています。

「厚狭毛利家」は毛利元就の五男から始まるということですから、三兄弟のさらに弟にあたるんですかね。

 

家臣たちの詰所となっていたそうです。

 

写真は、明治維新後に取り壊される直前の萩城。

望楼型のお城だったようです。

 

では、厚狭毛利家の屋敷から、萩城へと入ります。

 

ベージュ色の巨岩が積んであります。

 

お城の中だけに民家はありませんが、萩焼の窯元が点在しています。

 

お堀と指月山。

 

お堀の向こうにあるのが、天守台です。

 

ここに、毛利輝元が築いた天守閣が建っていたと。

 

では、天守台に登ります。

 

礎石が残されていました。

 

天守から、萩城下を眺めます。殿様の眺め。

 

この先にも石垣が続き、櫓など建っていたのでしょう。

萩の町は平地ですが、お城は、海とお堀と指月山に護られています。

 

花江茶亭。毛利藩の別邸にあったのを移築したもの。

 

水は枯れていますが、お庭がありました。

 

この樹は「ミドリヨシノ」という珍しい桜で、緑がかった花が咲くそうです。

ま、今見ても、何が何だかわかりませんが…

 

石橋があって、その先は志都岐神社となっています。

明治以降に、本丸跡に茶室を移築したり、神社を建てたりしています。

(でも、駅や市役所とかにならなくて、よかったなあ)

 

東園跡。この庭園は、江戸時代からずっと変わらず、ここにあります。

 

萩城址を一通りまわりました。

指月山に登るのも楽しそうだったのですが、諸般の事情であきらめます。

 

お城の外縁の塀の先は、海。

 

さっきバスから見えた砂浜、菊ヶ浜です。

 

この塀は復元されたものだそうですが、

海から見た、在りし日の萩城の雰囲気が伝わってきます。

 

お城を出てきた所に、「萩八景遊覧船」の乗り場。

川から萩を見ることができる舟。乗ってみます。

 

写真に写っている↑乗り場の前の水路ですが、萩城のお堀だと思ったら、違いました。

明治になってから、阿武川の氾濫から市街地を守るため、水を流す水路として掘られた運河なんだそうです。

 

船頭さんは、萩のいろんなことを教えてくれます。

そして、ハーモニカも披露してくれました♪

 

船は、橋本川を遡っていきます。

 

このあたり、江戸時代からのお屋敷が残る地域。

 

白壁が続きます。夏みかんが植えられた「かんきつ公園」もこのあたり。

 

船はUターン。常盤橋と、その向こうのお寺は観音院。

 

萩城の前、出発した所まで舟は戻り、これでおしまいかな?と思ったら、船着き場を通過して、さらに下って、日本海に出ました。

 

風もない静かな日ですが、さすがに海に出ると揺れます。

前方左に見えるのは、笠山。なるほど笠の形をしています。

 

さっき歩いた菊ヶ浜と、指月山、左端が萩城址あたり。

指月山は、どこから見ても、きれいな円錐形。

 

指月山の先に、萩の沖合に浮かぶ島々が点々と。

川や海から見る萩の町を楽しむことができました。

 

 

船を降りて、萩の城下の散策を続けます。

お城の近くは、上級武士のお屋敷街。

今は民家ですが、区画は広く、石垣や生垣が在りし日の雰囲気を偲ばせます。

 

幹線道路から中に入れば、こんな道。

 

重伝建地域でもあり、どの道を通っても雰囲気が壊れません。

萩には重伝建地域が4か所もあり、京都、金沢と並び全国最多だそうです。

 

口羽家住宅。

 

重臣のお屋敷です。

門はなまこ壁で立派ですが、家は意外に簡素。

 

 

座敷の隣には、襖一枚隔てて、武器が隠してあります。

さすが武家屋敷です。

 

合戦で使う馬印も残っていました。

 

お屋敷は、橋本川に面しており、風光明媚。

 

お庭は、きれいに掃き清められていました。

 

さっき舟で通った川。

ちょうど萩が咲いていました。萩の萩。

 

さらにお屋敷街のお散歩を続けます。

塀のなかに、夏みかん畑。

明治維新後、困窮した藩士たちの救済策として、夏みかんがつくられ始めました。

主のなくなった武家屋敷の石垣や生垣を風よけに利用し、内部の敷地を夏みかん畑に。

それもあって、江戸時代からの地割が失われずにすんだ、ということです。

 

このあたりから特に、趣のある道の風景になります。

ちょんまげ結った人が出てきそう。

 

「掘内のかいまがり」。

鍵の手に曲がった道を、萩では「かいまがり」と呼ぶそうです。

 

瓦を埋め込んだ土塀が、萩に特徴的らしいです。

 

今も、ごくふつうに民家が建って人が暮らしているのが、いいなあ。

 

時代劇のセットみたいに整備しつくしてある観光地とは、また異なる魅力があります。

 

津和野では石州瓦の家が目立ちましたが、萩では見かけません。

海沿いで、津和野より暖かいため、石州瓦でなくても大丈夫なんだそうです。

 

 

藩校・明倫館が最初に建っていた場所(1718年設立)。

明倫館は1849年に、新たに埋め立てられた場所へと移転していきますので、ここにあったのは130年間。十分に長い時間です。

 

平安古(ひやこ)という地域に来ました。

平安古の総門跡。

 

総門は、三の丸と町とを分ける堀にかかる橋にありました。

 

総門は夜間は閉じられ、城内への往来を管理していたそうです。

そう思って見ると、確かに橋の向こうは、庶民の町。

 

 

総門のそばにある、旧児玉家の長屋門。

本当に長い長屋。

このあたりは、旧〇〇家の長屋門とか〇〇家の土塀とか、あっちこっち残っています。

 

この長屋門は…萩博物館。

 

旧何家のお屋敷?って言いたくなるような建物。入ります。

 

萩の地理。一帯は山が深くて、山の一部は海からつき出て、島になってるかんじ。

 

萩の生物。萩の海にいたリュウグウノツカイの標本!

 

萩の生活、民俗。夏みかんの籠(橙籠)、40キロ入ったとか。

 

この籠を、文字通り山のように大八車に積みあげて運んでいる写真もありました。

昭和の途中まで、こんな風景がみられたそうです。

いろいろ興味深く勉強いたしました。

 

ここも、三の丸と城下町を分ける門。北の総門。

「絶滅危惧種ミズアオイが咲いています」という看板が出ています。

 

外堀の中にあるかな?と、目をこらします。

 

これかなあ?

 

総門から外に出て、庶民の町の方へやってきました。

一気に雰囲気が変わります。御成道。

これはまたこれで、いい道です。

 

菊屋家住宅(重文)。

御成道からは、狭い横丁が3本。

 

菊屋家の横を入ると、1本目、菊屋横丁。

日本の道百選に選ばれているそうです(ここは電柱がない)。

 

その隣、2本目が、伊勢屋横丁。

 

もう一つ隣、3本目は江戸屋横丁。

江戸屋横丁には、木戸孝允のお家がありました。

 

近くには、高杉晋作の誕生地もありました。

横丁を、「土塀にみかん」という萩ならではの風景を見ながら下っていきます。

昔からの町は、萩の中でも少しだけ標高の高い地域にあります。

萩は扇状地で湿地帯も多かったわけで、江戸時代をかけて少しずつ干拓をすすめて、人が住める地域を増やしていったという経緯があります。

 

明倫館の移転先(1849)は、干拓でできた広い土地。ここ。

大きな建物が復元され、賑わっていました。(このあたり、都合により駆け足で通過)

 

明倫館から、バスでいったん東萩に戻り、午後からはレンタカーを借りて移動。

 

萩の城下町とは少し離れ、吉田松陰ゆかりの地にやってきました。

松陰神社。

 

まずは、お昼ご飯。明治維新の功労者たちに見下ろされつつ。

「松陰うどん」は「晋作うどん」より150円ほど安い。松陰先生、庶民的。

 

「冷風 松陰うどん」をいただきます。

トッピングに、「平天」というさつま揚げと、ちくわ、椎茸の含め煮、そして青い柚子。

萩では、青い柚子をよく使うみたいです(昨夜の居酒屋さんでもそうだった)。

それから、この「平天」やちくわを麺類に入れるのも特徴的(津和野でも同様)。

 

松陰うどんを食べたあとは、松下村塾です。

 

小さな小さな建物。

左側が増築部分で、最初は、右側の一間だけ。

 

その、最初の八畳間。

明倫館は入るのに相応の身分が必要だったのに対し、松下村塾は身分を問わず。

 

松下村塾のすぐ横に、松陰の実家、杉家旧宅。

 

その一角が、松陰が幽囚されていた三畳間。

 

もともとここに杉家があり、松陰が咎めを受けて幽囚され、その間に塾で人を教え…

その場所を、後日、神社にしちゃった、という場所。

実存の人物を祀って神社を建立する、というのは、吉田松陰の時代が最後かもしれません(→明治の最後、乃木大将がいましたね)。

 

もうちょっと、松陰先生ゆかりの地を。

松陰神社の背後の山を、車で登ります。

陶芸の村公園の展望台。

 

そのそばに、吉田松陰の生家跡。家の跡が表示されています。

小さな家で、おそらくごく普通の質素な家だったのでは。

 

敷地面積は小さくとも、眺望◎、日当たり◎、の物件です。

萩の町と指月山と萩城を一望できます。

でも城下町までは遠いな~、交通の便△。

 

「吉田松陰先生誕生之地」の碑。「門下生 山県有朋」と小さく。

身分は書かず、あくまでも「松陰先生の一門下生」として揮毫したと。

これが山県有朋の絶筆なんだそうです。

 

そして、松陰先生のお墓も、生家の横にあります。

特に大きい訳でもなく、一族の他のお墓と並んでいました。

 

後ろ(写真右端)の、高杉晋作のお墓のほうが目立っていました。

 

松陰先生の育った山を降りて、今度は海のほうへ。

萩には槙の木が多いけど、街路樹も槙の木。

岩国(錦帯橋)に行った時も、槙の木の街路樹を見て「珍しい…」と写真を撮った覚えがあります。山口県では街路樹によく使われるのかしら。

 

萩の市街地からしばらく北上すると、萩反射炉の跡。

試作品で、実用はされませんでしたが、松下村塾や萩城下町と一緒に世界遺産となっています。

現存する、初期の反射炉は、伊豆韮山と、ここ萩の2か所だけ。

かっちりとした石積みの韮山と異なり、ここの石積みはまるで「野面積み」。石積みの表面には、漆喰が塗られていたらしいです。

上部だけ煉瓦を積んであります。

 

反射炉のすぐとなりに、山陰本線の線路がありました。

今は一時不通となっていますが、列車から反射炉がよく見えるでしょうね。

復旧したら乗ってみたいです。

 

萩反射炉のもう少し先の、海に来ました。

恵美須ヶ鼻造船所があったという場所の海。ただの海岸。

造船所は、反射炉と同じく、世界遺産の構成資産となっています。

ロシア式とオランダ式、技術の異なる洋式の軍艦をそれぞれ一艘ずつ、ここで建造したそうです。

 

造船所跡は、海のすぐ横の、ここにありました。

今は更地となっているだけで、地形も変わっているようで、往時をしのぶことは難しい。

頼むと解説をしてくれるようです。

世界遺産となった場所には、山の中や人里離れた場所でも、必ずガイドがいて、整備されてるんだなー、と思いました。

 

萩、ざっとひととおり、廻れたかな?

長い歴史があるだけに、まだまだ、いろんなものがいっぱいありますけど。