象潟を歩いたあと、本来の予定では、鳥海山に行くつもりでした。

でも曇っていて、あまり眺望がきかなそうなので、予定変更。

横手市増田にある、蔵のある町並みを訪ねます。

 

日本海東北道でいったん由利本荘に戻り(無料でした)、由利本荘からは海岸を離れ、東へ。

ゆるやかな山の中を、横手方面に向かいました。

 

増田のことは、なんかでチラッと見たことがある…といった程度です。

「蔵の町」らしい、というだけで、よくわかってない。

 

駐車場に車を停めたら、横に石積みの蔵がありました。

あとで考えると、この蔵は、外蔵として残ったもんじゃないかな。

 

通りに出てくると、いきなり風格のある木造3階建ての家。

この日は休館となっていましたが、「旧石田理吉家」ということでした。

 

「くらしっくロード」と名付けられた通りの両側に、古くからの家がたくさん並んでいます。

中には場違いなコンクリート造りの昭和のパチンコ屋が廃墟になってるのも混じって、かえって面白いけど。

 

昨日赤神神社の五社堂で見た、前に一本突き出した棟飾りがここにもありました。

 

重伝建にも指定されている町並。

その1軒、この↑写真左、蔵の駅(旧石平金物店)に入ってみました。

増田の特徴的な「内蔵のある家」を、無料で見学できるということです。

 

で、「内蔵」って何だ?(ぱっと見「内臓」と間違える…)

 

入ると、奥の方へず~~っと、廊下が伸びています。

とても細長い家で、左に座敷が並び、右に廊下。

 

廊下側は、天井がなくて、屋根まで吹き抜け。光が射しこんできます。

 

室内に水屋もあったそうですが、今は解体されて井戸だけ残る。

この井戸は現役だそうです。

 

水道も引いてあります。

 

で、廊下を歩いていくと、同じ屋根の下に蔵が建っている。

独立した蔵ではあるのだけれど、上を「鞘」と呼ばれる上屋で覆って、母屋と「同じ屋根の下」。だから内蔵なのかー。

 

雪が深い時期にも、これならすぐに蔵に入れます。

 

 

ここでは、内蔵の中に入ることもできました。

 

蔵=貯蔵庫、ではありませんでした!

ピカピカに輝く板張りの部屋の奥には、お座敷。「座敷蔵」というそうです。

床の間つきのお座敷で、とってもお金をかけてある感じがします。

 

内蔵の2階は、ふつうに貯蔵庫としての役割でした。

「座敷蔵」に対し、物を保存する蔵は「文庫蔵」というそうです。

だから1階・座敷蔵、2階・文庫蔵、ということになります。

 

天井はなく、すごい太さの梁が見えています。

 

同じ屋根の下に、母屋―水屋―蔵と一列に並んだ、たいへん細長い家を抜けて、裏口から出て、振り返ったところ。

 

しかし、敷地はさらに細長く続きます。向こうにもまだ、独立した蔵が建っている!

あの蔵は、外にあるので「外蔵」。

 

細長い庭と外蔵と、さらに続く庭を抜けて、ようやく敷地の外へ。そこで振り返ったところ

内蔵含めた家屋の構造、敷地の細長さ、いろいろなものにビックリしました。

 

横手市のサイトに、増田の内蔵の構造に着いて解説されています。

今見た家は、この一番上のパターンに当たります(次に見た山吉肥料店も同様)。

 

増田は、昔から物流の盛んな場所で、明治時代以降、養蚕や鉱山などで発展した商業の町。

内蔵があるのはほとんど商家だそうです。

が、繁栄して家を建てても表向きは質素。

内蔵、庭など、人に見せない場所にこだわって、お金をかけてあるのが特徴的だそうです。

見栄っ張りじゃないのね。

 

人が多く働いた商家の中で、内蔵だけは家族以外の立ち入りが制限されたプライベート空間として存在したとのこと。

外の人に見せるものではないので、世の中にはほとんど知られていなかったそうです。

 

そのうち生活が近代化し、あまり使われなくなり、かえってお荷物となってきた内蔵。

そこに光が当たり、保存活動が起こり、人々に知られるようになってきたのは、まだ20年ほど前のこと。

 

 

 

町並の家々は、外見だけの所、無料開放している所、有料の所、いろいろです。

何となくもう1軒、ということで、見せていただいたのは、山吉肥料店(有料)。

入口には、吉永小百合さんがここを訪れた時に、ご主人と撮った写真が飾ってありました。

 

この家を見学することにしたのは、たまたま何となく、だったのですが。

入ってみて知った、このお宅は増田で唯一、今でも当主がそのまま、住みながら公開している家でした。

住人のご夫婦がお出迎えしてくれ、案内は、84歳というご主人自らがしてくださいました。

 

ここで生まれ育ち、住んでいる方が、自宅を見学させてくれる…それはとても貴重な体験だということが、見学しながらわかってきました。

 

 

家の基本的な構造は、先ほど見た「蔵の駅」と、ほとんど変わりません。

母屋は、明治中期の建築。その後、大正、昭和と増築・改築が重ねられているそうです。

 

窓は南側で、高い位置にあるのは、雪に埋もれてしまっても光が入るように。

今でも、1階部分全部、雪に埋もれちゃうこともあるそうですが、屋根組は雪に耐える強いトラス構造(このお宅は、廊下の上も天井があるのでこの写真には屋根組は写っていません)。

床は、今はコンクリですが、昔は土間(タタキ)だったそうです。

 

廊下に沿って、座敷が3つ並んでいます。

店にいちばん近い手前の座敷は、商談などを行う部屋として使っていたそうです。

 

いちばん奥の座敷。この日は五月人形が飾ってありました。

いちばん格式が高くて、床柱はエンジュの樹。ふすまには芭蕉布。

冠婚葬祭を行う部屋でもあり、宴会の際には、3部屋ぶち抜いて広くして使ったそうです。

 

その奥に、今もご夫婦で使っている居間・台所の一部屋があり、そこは当然非公開。

それとは別に水屋の場所には、昔ながらの台所。

井戸と、研ぎ出しの流しがあります。

奥様は今でも、この流しも使うそうです。

使いやすくて好きなんだとか。冬は凍ってしまうそうですが。

…私も、この研ぎ出しの流しの、ひんやりと固い手触りって好きです。

 

内蔵が造られたのは昭和10年。増田ではいちばん新しい内蔵のことです。

内蔵正面は、全面が黒い漆喰。

この黒漆喰というのが、左官屋さんにとっては憧れの仕事らしい。

白い漆喰を塗ってから、その上に黒漆喰を塗って、エッジの部分は白を残してあります。

扉とその周囲の黒漆喰には、さらに雲母を砕いて混ぜて磨き上げ、黒光りしています。

すごい技術と手間とお金がかかっている。

 

そこに、漆塗りの木枠が映えます。

麻の葉の意匠が素晴らしい木枠は、扉を傷から守るという役割を果たしているそうです。

 

枠は軽くて、上部中央の20㎝くらいの棒と紐で、扉に止めているだけ。

いざ「火事だ!」という時には、枠を外して、扉を閉める。

実際、ごく簡単に外すことができます。ご主人がやって見せてくれました。

 

(後で映像で見たのですが、扉のそばには床下に味噌をしまう場所がありました。火事の際は扉を閉めてから、さらに隙間に味噌を塗りこめるそうです)

 

 

内蔵の側面です。白壁+黒漆喰の腰壁+黒漆喰の窓+漆の枠。

窓の上高い場所に、キャットウォークみたいなものが設置されています。

これは、火事の際に、内蔵の2階の扉を閉めに行くために設置してあるそうです。

家が焼けたとしても、蔵の中の物は守れるよう、考え抜かれています。

 

内蔵の裏手。やはり、白壁+黒漆喰腰壁+黒漆喰の扉+枠。

裏と言ってもこれだけの意匠。キャットウォークも続いてます。

ご主人は、娘さんの結納をこの内蔵で行ったそうです。

きっと中もスペシャルな造作のお座敷なのでしょう(中には入れません)、特別な日だけに使う特別な場所。

先ほど見た「冠婚葬祭を行うお座敷」とはまた別の位置づけなのかな?と不思議な気がします。

 

同じ屋根の下に水屋も蔵もあれば、雪に閉ざされた冬の間、外に出なくても用が足せる。

そんな生活の中で発展した内蔵ですが、でも単なる貯蔵庫じゃなくて「家じゅうでいちばん大切な場所」となったところが、増田の内蔵の不思議なところです。

 

でも、息子さんは「こんな所に住みたくない、と東京に行っちゃってねー」とおっしゃってました。

 

 

内蔵含めた母屋から、外に出たところ。

敷地の中に水路(下堰)が流れてきています。

ここで野菜も洗えるし洗濯もできます。

子どもの水遊びもできますね。

 

水路に沿って、たいへんきれいに手入れされた庭が、奥へと続きます。

 

白いバラがきれいでした。奥様が手入れされているそうです。

その奥にあるのは、外に建つ蔵の一つ、味噌蔵。

バラと古い蔵が、とてもマッチしています。

 

味噌蔵のぞくと、大きな味噌樽が並んでいました。

 

もう一つ外蔵があって、こちらは塩蔵として使っていたそうです。こちらも大きな蔵です。

山吉肥料店は、養蚕の繭を扱う仕事をしていて、そこから肥料店に。

味噌、塩なども扱う商社のような商いをしていたらしいです。

そこで得たお金で、今のご当主のおじいさんが蔵を建てたとのことです。

 

さらにまだ、敷地は奥へと細長く続きます。

奥にはさらにもう1軒。

こちらは、お客様が来た時に泊まるための家だそうです。

 

そうかー、昔は町にレストランやホテルがあるわけじゃないから。

商談も宴会も、お客さんを泊めるのも、結納や披露宴もお葬式も、みな自分たちで。

内蔵のある家に生まれ育ったご主人の話からは、昔の人々の生活が浮かび上がってきます。

 

で、ようやく外へ。裏通りは、黒塗りの塀が続く道でした。

ここから、昔は遠い山まで田んぼがひろがって、いい眺めだったそうです。

今はいろんな建物があって望めませんが。

 

ご主人の話からは、この町、この家での暮らしに愛着をもって過ごしていらっしゃったんだな…と伝わってきました。

ちょうどこの家の内蔵と同じころのお生まれかと思います。

ご夫婦とも、今後ともお健やかに過ごされますように。

 

☆☆☆

 

山吉肥料店の周囲でも、公開されている家はいくつもありました。

こちらも少し見る目ができて、どれも基本構造は同じっぽいけれど、中はそれぞれ趣向を凝らしてあることが、表からチラッと見えただけでもわかる。

で、そうやって家の前で見上げていると、「見学どうぞ」と声がかかる(笑)。

 

面白そうだけれど、このへんで増田を後にします。

(いつかゆっくり、増田だけじっくり廻っても面白そうです。)

 

☆☆☆

 

増田から、車を返却する横手駅まで移動。

このあたりは、まっ平らな感じの盆地(横手盆地)でした。

東北の内陸といったら「山また山」というイメージで、こんなに大きな盆地が広がっていること、全く知りませんでした。

 

☆☆☆

 

横手駅前に到着。せっかく横手に来たので、「かまくら館」に行ってみました。

中に入るとまず、巨大な「梵天」が展示してありました。

旭丘山神社という所のお祭りで、使われるそうです。お祭りは2月、雪深い時に行われるお祭りなのですね。

 

かまくら館には、氷点下に維持された部屋があって、一年中、かまくらを見ることができます。

寒いから、すぐ出てきたけれど。

 

かまくらは、そもそも、小正月に水神様をまつって、五穀豊穣などを祈願するおまつりなんだそうです。

子どもたちが中に入って、大人を呼び込んで拝んでもらい、甘酒やおもちを振る舞うんだそうです。(かまくらの中は狭いから、子どもたちだとちょうどいいのかな?)

 

かまくらの奥には、水神様と書かれたお札と御幣が祀られ、お賽銭箱や燭台も。

かまくらって、雪だるまや雪合戦と同じように、ただ「雪国の子どもの遊び」だと思ってた。。

まだまだ知らないことがいっぱい、あります。

 

車を返して、横手駅へ。

 

駅前のポスト。丸い兜?と思ったら、かまくらでした。

ブロンズで雪の素材感を出すのは難しいな…

 

横手は、奥羽本線と、北上線とが交わる場所ということで、線路がいっぱい。

 

北上線のディーゼル気動車が停まっています。北上線も魅力的です…!

 

しかし、乗るのは奥羽本線です。

つぎの駅の名前が、後三年??

「後三年の駅」周辺が「後三年の役」の舞台とのこと。

でも、後三年の役ってなんだったっけ…

 

学校がえりの賑やかな高校生と一緒に、列車は出発しました(このへんの高校生は、後三年の役には詳しいだろうな)。

 

後三年駅のあたり。まだまだ平らな横手盆地が続いています。

 

後三年駅の先に、大曲駅。

大曲を過ぎて、線路が西へ向かい始めると、横手盆地を出て山の中に入りました。

そこからは、秋田新幹線とすれ違ったり、山の中のひっそりとした駅に停まったり。

 

秋田駅の手前では、なんと後から来た秋田新幹線が、駅じゃない場所で抜いていきました。

複々線のわけないよね…?

 

☆☆☆

 

横手から約1時間、秋田駅に到着しました。

秋田3泊目。

夜はイタリアン。いぶりがっこにクリームチーズをのせたカナッペ。

いぶりがっこ、燻製なのでチーズもなかなか合います。