今日は、大垣をお散歩します。

大垣って「東京発の夜行列車の終着駅」というイメージしかなかったのですが…松尾芭蕉について書かれた本を読んでたら、奥の細道・終着の地として大垣の名前が出てきました。

そこに記念館も建っているらしい…ということで、行ってみます!

 

大垣駅を降りてみると、町も「奥の細道むすびの地」というPRをしています。

ガイドマップに沿って歩いてみました。

 

大垣駅からほど近い神社にに、岐阜町道標。

左 京ミち  右 きそ路  

左の側面には「たにくみ道」とあります。(谷汲山のほうも行ってみたいな~)

 

ここから、水門川という小さな川に沿って、「奥の細道むすびの地」にある記念館まで、歩きやすい遊歩道が続いていました。

 

遊歩道沿いには、「ミニ奥の細道」ということで、奥の細道の句碑が順を追って、並んでいるようです。

まずは「行春や鳥啼き魚の目は泪」

旅立ちの句に見送られて、いざ「ミニ奥の細道」へと出発。

ここから、奥の細道の句碑は道中に24。

 

少し歩くと、「堀抜井戸発祥の地」。

天明の頃、ここで掘抜井戸という工法が編み出された、その記念碑。

 

来てみてわかったのですが、大垣は平地。そこを、水路がたくさん流れています。

市のHPにも「水の都・おおがき」と掲げてあります。

水には困らない場所に見えるのですが…昔は渇水の時には苦労したようで、井戸を掘る新工法は画期的だったと思われます。

 

水門川と遊歩道。静かな住宅街の中に伸びています。

 

水の都・大垣には、水が自噴する泉が、市内あちこちにあります。

ここは栗屋公園という、ごくふつうの住宅街の中の公園ですが、これも自噴井。

 

水門川、流れは思いのほか早いです。

ここで水門川は西へカーブして、大垣城のお堀として利用されていた箇所となります。

大垣の町は、ほぼ碁盤の目状に道が通っていて、川も直角に曲がる。

わかりやすいです。

平地に拓かれた城下町ならでは。

 

大垣城 東総門跡。お城の東北の角にあたると思われます。

 

美濃路の説明がありました。

東海道から宮(名古屋)で分岐し、大垣を経て垂井で中山道につながります。

 

いっぽう、ミニ奥の細道のほうは、すでに岩手県から山形県へと入りました。

「蚤しらみ馬の尿する枕もと」という、たいへんな句です。

 

遊歩道を西に進むと、駅前から伸びる広い道を横切りました。

アーケード街があり、大垣の中心となる通りみたいです。

 

さらに西へ進むと、水門川と、北から流れてきた川が合流しました。

 

ここにあったのは 「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」…立石寺まで来ました。

 

合流後。ずいぶん川幅が広くなりました。

 

広くなった川の流れをバックに、「さみだれを集めて早し最上川」

秋雨を集めて早し水門川。

 

大垣藩校の跡。孔子像。

 

古くからある、八幡神社まで来ました。神社の脇の水路。

川と名がつくものだけでなく、こういった水路が、縦横に流れています。

 

八幡神社。

 

ユネスコ無形文化遺産「大垣まつり」の発祥の地だそうです。どんな祭なんだろ。

 

境内には芭蕉の句碑(句碑そのものは側面しか写ってない…)。

「折々に伊吹をみては冬ごもり」

奥の細道にある句ではなく、数年後に大垣から江戸へ向かう際に立ち寄った家の主人に向けて詠んだ句。ここは冬は伊吹山のほうから冷たい風が吹いてくる地です。

 

八幡神社境内にも、自噴井がありました。

 

遊歩道は、大垣城のお堀(川)に沿って伸びています。

ここらでいったん、遊歩道を離れて、大垣城へと向かいました。

大垣城は旧・国宝だったのが、ここも第二次世界大戦の空襲で焼失。

再建されたものです。

戦争で焼失した城のなんと多いことか…。

 

大垣は、関ケ原とも近い場所。関ケ原の合戦の直前、大垣城には石田三成が入っています。

ことによると、大垣が合戦の舞台となったかもしれません。

 

大垣城の中の展示。

関ケ原の合戦の前日にあった、大垣の西を舞台とした「杭瀬川の合戦」のジオラマ。

ジオラマは、杭瀬川の合戦を描いた昔の絵巻を基に造られています。

杭瀬川の東側に大垣城が見えています。

この合戦では、西軍(この戦では東、大垣城側)が勝利したそうです。

 

四層の天守の最上階に来ました。何故か太鼓が吊ってあります。

 

上からの眺めですが、今日はお天気が悪く…

でも、お城が平野に建っていることはよくわかります。

お天気が良ければ、大垣城から岐阜城が見えるそうです。

途中はずっと平野ですものね。

平城だけに、周囲に堀をぐるぐると廻らせてある城下町の設計です。

 

お城を出て、再び、ミニ奥の細道へ。

このあたり、落ち着いた街並みです。

 

「ますや」というこのお店は、その名のとおり、升を売る店でした。

大垣には、升の需要が多いのか…?

でも、このあと記念館や大垣駅の売店で、大垣土産を升に入れた商品ををよく見ました。

升の売り上げ日本一の町かもしれん。

 

これは古民家カフェみたい。

 

水門川がさらに広くなって、滝が流れ、ちょっと雰囲気が変わってきた。

 

「奥の細道結びの地」に到着しました。

赤い橋のたもとに燈台があり、川舟が浮かんでいます。

芭蕉は大垣でしばらく滞在し、紀行としての「奥の細道」はここで結びとなります。

でも旅は続く。ここは、芭蕉再出発の地でもあります。

ここから船に乗り、水門川を下り、揖斐川に合流し、桑名に出て、伊勢神宮へ…

 

蛤のふたみに別れ行秋ぞ

右にいるのは、大垣の門人、谷木因。

親しく交わった木因さんとのお別れを読んだ句ですが、いっぽうで芭蕉は「桑名に着いたら焼きハマグリ食べるぞ~、二見ヶ浦も見にいくぞ~」と楽しみにしてたかも。

 

この船着き場の前に、「奥の細道むすびの地記念館」がありました。

 

ちょうど、詳しく奥の細道の旅を紹介する映像をやってて、見ることができました。

見てるとまた、いろんなとこ行きたくなりますね…

 

奥の細道自筆本(複製)。

流れるように書いてある字が、全く認識できないです。

 

もう一度、旅の行程の復習。

(前に深川の芭蕉記念館行った時にも、旅の地図を写真に撮って、芭蕉の字が読めないことを書いてあった…興味を持つ箇所が何も変わってない)

 

記念館の前庭にも、水が湧き出していました。

 

ミニ奥の細道を歩き終えて、芭蕉に倣ってここから桑名へ向かっても楽しそうなのですが(養老鉄道に乗ると行けるみたい)、そういうわけにもいかず。

 

帰りは、町の中に残る美濃街道を通って、大垣駅へ戻ります。

 

立派な羊羹屋さん。

 

ちょっと迷いこんだ道。

小さな水路があちこちに流れ、その上に、小さな祠が乗っています。

こういった、水路の上の祠は何か所もありました。

手入れして、守っている人がいるからこその風景です。

 

大垣駅に戻ってきました。

JR大垣駅の横にある、養老鉄道・大垣駅。以前は近鉄養老線でした。

養老鉄道のホームをのぞいてみたら、終着駅の形(櫛型ホーム)をしていました。

でも、ここから南(桑名へ)と、北(揖斐へ)の2路線が出ており、形の上では大垣は途中駅。

いずれも揖斐川に沿って、下流へ/上流へと行く路線でした。

 

こちらは、JR大垣駅。6番線は樽見鉄道でした。

養老鉄道とか、樽見線とか、長良川鉄道とか。

このあたりも魅力的なローカル線がいっぱいです。

 

また乗りにきたいものだ…なんて思いながら、名古屋に戻ってきました。