14:13 三陸鉄道で釜石を出発。
今は「三陸鉄道リアス線」ですが、かつては「南リアス線」だった路線です。
すぐ、鉄の町の大きな鉄橋を渡りました。
鉄橋を過ぎると釜石港が見えます。
このあたりは更地が多くて、津波の被害を受けた場所かと…
震災の記憶を未来に伝えるためのパンフレットが釜石駅にあって、もらってきて後で読みました。
今回の旅では、このあと釜石から福島、茨城まで、沿岸を南下していきます。
その距離は300㎞くらいでしょうか、ず~っと、海岸、河口、平地には震災の爪痕が今も残り、震災遺構や慰霊碑が点在し、311の記憶を伝えてゆくパンフレットが各自治体ごとに作成されている、そんな300㎞。
釜石観音が見えました。
三陸鉄道南リアス線の沿線風景は、前に乗った「北リアス線」と、とても似通っていました。
リアス式海岸のギザギザの入り組んだ湾のところには、それぞれに河口があり、集落があり、駅があり、海が見える。
そして、ギザギザの出っ張り部分は、深い山で、列車はトンネルで抜けます。
列車に乗っていると、トンネル→出ると駅と集落→すぐトンネル→出ると駅と集落→…
の繰り返し。
釜石湾と大船渡湾の間には、大きな湾が3つあり、それぞれに駅がありました。(小さなギザギザはもっとあります)。
一つ目の湾にある唐丹駅。この先ににトンネル入り口。
その時には、トンネルを抜けて河口と海が見えると、ことごとく工事中でした。
それから5年が経って、今はほとんど工事も終わっていました。
で、工事が終わった今は、あらゆる河口はこんなかんじ。海は見えません。
2番目の湾。吉浜駅手前。
高いところからなら、防潮堤も見えず、海が見えます。
岸辺が見えると、嬉しくなります。
吉浜駅から山側を見れば、たぶん震災前と変わらぬ風景なのでしょう。
3番目の湾にある、恋し浜駅に到着。
この駅では、しばらく観光客のために停車してくれました。
元々は、「小石浜」なんですよね。
ホームはかなりの高台にあります。この先の浜が、小石浜。
待合室にはギッシリと、願い事を書いたホタテの殻がぶら下げてありました。
そのホタテの貝殻がみな、ジャンボサイズ。大きなホタテがとれたんだなあ…
恋し浜の次の駅は、「綾里」と書いて「りょうり」。
そして、その次にある湾が、大船渡湾。
大船渡湾のいちばん奥まったところが、終点、盛駅。15:15到着。
盛駅に到着する直前、盛川を渡る鉄橋を通るのですが、そこにもう一つ、別の鉄橋がかかっていました。
あれは何だ???と思って見てました。
しかも盛駅には、貨車がたくさんありました。三陸鉄道がこんな貨車を持ってるはずがない。
調べてみましたら、「岩手開発鉄道」という、現役の貨物路線でした。
盛川上流にある石灰石の採掘現場から、さっきの鉄橋を渡って大船渡港までを結んでいます。
三陸鉄道、盛駅の駅舎。
すぐ隣に、JRの盛駅。
ここから、大船渡線に乗り換えます。(11分後。ちゃんと連絡しています)
駅といっても、今はBRT。初めて乗る、BRTです。
かつてのホームが、BRT乗り場となっていました。
鉄道駅の名残の跨線橋がありますが、向かいのホームには横断歩道で渡れます…跨線橋使う人いるのかな。
改札口で切符は買いませんでした。整理券を取って乗る、どっから見てもただのバス。
BRTが走っているのは、かつては線路が敷設してあった、専用道。
左隣に見えてる線路は、途中まで並走する三陸鉄道です。
でも大船渡駅の手前からは、専用道が工事中ということで、しばらく一般道を走りました(本当に「ただのバス」になりました)。
15:21 大船渡駅に到着。ここで降りました。
真っ赤な車体が目をひくBRTを、見送りました。
BRT大船渡駅。一般のバスターミナルと隣接しています。
☆ BRTに乗ってみて、初めて知ったこと、まとめ ☆
BRT= bus rapid transit
この大船渡線・気仙沼線に限らず、専用道を走るバス輸送のことですが。
ここではあくまでも、今回乗ってみた大船渡線・気仙沼線について。
これが専用道(線路跡)。一般車も人も進入禁止。
道路との交差点には、一般車が入れないように、遮断機があります。
鉄道の場合には、線路に平行して遮断機があるのに、BRTの場合は線路(軌道)に直角に遮断機がある。
最初は、めんくらいました。
この、奥に伸びてゆく道が、BRT専用道。
BRT用の信号は、ふだんは赤。BRTが近づくと青になって遮断機が上がります。
BRTの中から見ると、行く手が遮断機で遮られていますが、近づくと開きます。
車内アナウンスでは「BRTの前後の横断はおやめください」等々、「バス」とは絶対に言いません。
「私はバスではない、BRTである。そこは譲れない」という強い意思?を感じます。
(以上、BRTについて知ったこと)
やってきました、大船渡。
駅前にあるのは、真新しい「おおふなぽーと(大船渡市防災観光交流センター)」。
きっとあるよね…と期待していましたけど、期待どおり!!
<朗希投手 凄い! 完全試合達成 おめでとう>
ここは佐々木朗希くんが、震災以降、高校まで過ごした町。
脱線しますが、先日、マリンに朗希くんを見に行ってきました。
平日のナイターが、朗希くんのおかげで満員御礼。
満員で遠い2階席しか確保できず、ちっちゃな写真です。
この日も好投し、勝ち投手の権利を持って降板するも、後続が打たれてチームは負け。
9回までは朗希くんのヒーローインタビューを楽しみにしてたのに(涙)…
マリン外周に輝く、大きな記念ボード。
この前でみな、同じポーズで写真を撮っています。
(脱線おわり)
ただ、朗希くんの出身校、県立大船渡高校があるのは、大船渡駅の近くではなくて、先ほど乗り換えた、盛駅のほうでした。
駅前にある大船渡プラザホテルにチェックインして、荷物を置きます。
ホテルの部屋から見る、大船渡駅……
かつての大船渡駅は、震災で流失。
このあたり一帯、どれほどの被害であったかと思います。
どんな町並みが広がっていたのだろう?
整然と区画整理された更地と、その中に点在する、妙に小ぎれいで新しい建物。
大船渡だけでなく、この後、南に下っていく旅のなかで、何度も何度も、こういう場所を通りました。
駅前広場の向こうにはすぐ、深く切れ込んだ大船渡湾と、港が見えていました。
荷物を置いて身軽になって、少し遊びにいきます。
大船渡駅前からタクシーに乗って、大船渡湾を横目に、海の方へと進みます。
どこまでいっても外海に出ずに大船渡湾が続き、まるで川のようです。
大船渡湾は、驚くほど細長く、切れ込んでいました。
しばらく走って、高台の森に入り、「穴通磯」という所に着きました。
駐車場から、背の高いアカマツの林を抜けて、海へ下っていきます。
ここが「穴通磯」。
砂岩と泥岩交互に堆積したところが浸食されて、こうなったそうです。
実にスパッと、斜めになっています。
この穴を通り抜ける観光船もあるそうです(この日はやってない)。
ギザギザの海岸線と絶壁、沖には岩が点在しています。
静かです。
今度は、碁石海岸に行きます。
穴通磯→碁石海岸は、海沿いの遊歩道を1時間ほど歩くと着くらしいのですが、暗くなっちゃうので、引き続きタクシーで移動しました。
碁石海岸。海に突き出すテラス。
清水の舞台みたいです。
その舞台の上から。
ここの岩と岩の間の水路には、「乱曝谷(らんぼうや)」という穏やかならぬ名前が。
その乱曝谷に、雷岩という岩がありました。
その名のごとく、波が打ち寄せると、ド~ン…とにぶい音を響かせていました。
切り立った岩の上には、ウミネコがいっぱい。
さらに遊歩道を、岬の先っぽへ。
妙に立派な四阿がありまして。
碁石埼灯台。
先ほどの乱曝谷の岩が、ここまで細長く続いてきています。
ゆっくりと陽が傾いていきます。
穏やかで、素晴らしい風景でした。
遊歩道と灯台のあたりは切り立った岩の崖でしたが、少し離れたところには浜や港もありました。
浜があるところは、どこも、この光景です。
この防潮堤のあたりも、津波被害の跡が見えます。
「だから仕方ないんだけどね…海が見えないんだよね…」とタクシーの運転手さん。
5年前に宮古で乗ったタクシーの運転手さんも、工事中の巨大な防波堤を前に、同じこと言ってたなあ。
そんな防潮堤につけられた出入り口から、浜に入る(出る?)と、碁石浜。
その名のとおり、黒くて丸っこい小石がゴロゴロしていました。
大船渡の町に帰る途中、運転手さんが「樹齢1400年の椿」に案内してくれました。
写真ではその大きさがわかりませんが、すごく大きな樹でした。
教えてもらわなければ、まさかこれが椿だなんて思えない大きさ!
一つだけ、まだ花が咲いていました。少し淡い、控えめな色でした。
運転手さんはこの他にも、沿岸部を走りながら、311の時の大船渡やご自身の様子など、いろいろと話してくれました。お世話になりました。
夕暮れ時に、大船渡の町中に帰ってきました。
駅前には、復興商店街があります。
その中の1軒で夕食。
大船渡の「ささき」。朗希くんとは関係ないらしいですが、お店の名前のインパクトは大。
ウニ入り海鮮丼をいただきました♪満足でございます♪
しっかり食べて、ホテルへの帰り道。
明日の朝食をコンビニで調達して、コインランドリーで洗濯物を回収。
「千石船・気仙丸」というのがライトアップされていました。
もともと、このあたりには技術の高い大工集団があり「気仙大工」と呼ばれていたそうです。
(陸前高田には、気仙大工左官伝承館があります)
この気仙丸は、その気仙大工の技術でもって、1991年にイベント用に造られた船なんだそうです。
大震災の時には港に係留されていて、押し寄せる津波にもめげず、無事だったとのこと。
その後、復興のシンボルとして、再び海へ。
昨年からは、陸揚げされて、こうして展示されているそうです。
次の朝、もう一度行ってみました。
帆が上がってたら、カッコいいだろうなあ。
気仙丸のすぐ先に、大船渡港。
でも、防潮堤で見えません。
海が見えるよう、小さな窓が開けられていました。
防潮堤の扉。近くで見ると壁の厚み、扉の重厚さに圧倒されます。
防潮堤の上から、大船渡港と湾。
写真右端↑には、鎮魂の鐘があります。
大船渡市は、震度6弱。浸水高11.8m。
人的被害420名。全壊2787戸。
防潮堤の上から見る、その大船渡の町です。どんな町だったのだろう…
すぐそばの川沿いには、3時25分で止まった時計台が、遺構として残されていました。
朗希くんのおかげで、なんだか身近に感じるようになった大船渡、陸前高田。
ここに住む人たちが、今後とも穏やかに暮らしていけることを祈ります。
朝ごはんを食べたあと、再び大船渡駅から、7:26 BRTに乗りました。
お隣の町、朗希くんが震災まで住んでいた陸前高田まで行きます。
大船渡と高田の間の丘陵地帯、小友駅あたり。
道路は、二つの町の間をほぼ直線で結びますが、大船渡線の跡を行くBRTでは、リアス式海岸のギザギザを丁寧に辿り、陸前高田まで40分ほどかけて走っていきます。
通る道は専用道だったり、一般道だったり。
大船渡は湾に沿った細長い町でしたが、高田に近づくと、少し風景が広くなった感じ。
バスは高田の町に入り……この町も中心部は流されてて、更地が目立つ中にポツンとある、BRT陸前高田駅を通りました。市役所も移転して、ここにはありません。
陸前高田駅の次の、BRT奇跡の1本松駅で降りました。
駅の前には、陸前高田津波復興祈念公園。
この広い広い場所がそのまま、高田松原だったのか。想像できません。
そのすぐ横には、気仙川が流れています。
川から海を見て、左に奇跡の一本松、右に震災遺構・気仙中学校。
正面、河口にあるのは防潮堤。
振り向いて町側を見る。陸前高田駅方向。
田畑の先には、平らな更地となってしまったエリアが広がっています。
震災遺構となっている、気仙中学校校舎へ。
3階建て校舎の上に、津波到達の高さが表示されていました。
ガイドと一緒でないと中には入れませんが、建っているだけで訴えるものがあります。
幸い、この中学校の生徒、教職員は全員無事だったとのこと。
気仙川の対岸、奇跡の一本松(モニュメント)。
たいへんに高い樹です。
枝葉はレプリカですが、幹の部分は、枯死した松に芯材を入れて、そのまま使っているそうです。
こんなに高い松の木が並んでいた高田松原、元の姿を想像できませんがどんなに素晴らしい松原だったかと。この一本松は、松原の中でもとりわけ高かったらしいのですが。
一本松の後ろにあるのが、これも震災遺構として残されたユースホステル。
気仙中学校よりも損壊が激しく、ぐにゃりと曲がってしまっています。
すぐ横には、高田松原に生えていた松の根っこが遺構として残されていました。
一本松に続く道には、新しい木々が植えられています。
このひょろひょろした木々が育つころには、景観も変わってくるでしょう。
気仙川の河口の防潮堤。内側を歩けます。
川に入る波をせき止めることができる、巨大な建造物です。
一本松の場所や気仙川河口からは、海を見ることはできません。
ここでも、防潮堤の上に登らないと、海は見えません。
この上。階段がついている所を登ります。
これが、高田松原の海岸線。(震災前と同じかどうかはわかりません)
びっしりと、松の苗が植えられています。
この苗木が元気に育って、いつかまた、高田松原になる…それは何年先かしら。
公園の中心にある、震災津波伝承館。
広大な公園内を歩いているうちに、時間がなくなってしまいました。
伝承館の中は、ものすごく駆け足で、ちょっとだけ。
奇跡の一本松、津波復興祈念公園に1時間半ほど滞在しました。
ここからさらに、BTRで南下を続けます。
9:45 わんこそば(岩手県のキャラクターらしい)が描かれたBRTがやってきました。
バスで走っていくと、高台には、津波の被害を受けずにすんだ、昔からの町が残されていました。
向こうに高田湾が見えます。
ひとつ山を越えて(ここで岩手県→宮城県)、今度は気仙沼の港が見えてきました。
鹿折川にかかる八幡大橋。護岸はここも(どこも)コンクリに覆われて。
気仙沼の海はすぐそこなのに、トンネルをたくさん通っていきます。
山が迫る、複雑な地形です。
BRT気仙沼駅には、陸前高田から40分ほど、10:23到着。
ここまで、盛~大船渡~陸前高田~気仙沼、と乗ってきたのが「BRT大船渡線」。
ここからは「鉄道の大船渡線」に乗り換えます。