03:00pm
タイトル未設定

つくづくアメリカらしいと感じるようになったのは、何事も定価というものがなかったり、あらかじめ決るということがなかったり、良くも悪くも需要と供給という関係で決ることだ。日本にいると、せいぜい飛行機に乗るときぐらいしか直前まで席が決っていないような予約を見たことがないが、アメリカでは、 Amtrakのような長距離列車でも飛行機と同じように指定席の予約の如何に関わらず、直前まで席は決っていない。改札口でチケットを見せると、ボーディングパスを受取り、それをもって割り振られた列車番号のドアまで行くと今度は車窓が立ってて、手書きの空席状況をもとに、あなたは二人だからここ、窓際がいいならここだよなんて、その場で割り振っている。この日乗ったNetro Northも通勤用の近距離列車で全席自由席にも関わらず、厳密に言えば改札というものがないために、車掌が奇妙な行動をした。駅ではあらかじめ切符(正確には回数券のような、一種の金券)を買い求め、電車に乗り込み全席自由席だから勝手に好きなところに座っていると、電車が動きだして程なくして車掌が席を回ってくる。車掌は乗客から切符を受け取ると、そのかわりに写真のような座席確認用の紙(切符とは言えないと思う)をあらかじめそれように用意された席のすき間に挟み込み、この乗客は何処まで行く乗客で、確認積みというサインになるらしい。この仕組みは、Amtrakでもやっていた。どうも、車掌はそこに座っている乗客が何処まで行くのかわからないと不安のようだ。

このような、日本の感覚ではいまいち行動の根拠がわからないものの他に、値段があまりにも市場に連動しているということを感じることもしばしば。飛行機の料金はもとより、ホテルなども定価は何処にもないし、レンタカーもハイシーズンの夏に借りると$80.00程度するクルマがオフシーズンの冬には半額以下だ。もちろん、乗用車を買うときだって、なんだって定価なんて表示されていない。自分でいろいろなお店の価格を調べて、賢い買い物をしないかぎり損をする仕組みになっている。正しく授業で習ったように、市場の需要に合わせて価格が決る資本主義のお手本のような世界だ。(日本が資本主義でなく社会主義だといったほうが、学問的には正確なのかもしれないが)