母の妹たちは、美人ぞろいであった。美しかった最盛期の天地真理に似た叔母や、やはり最盛期の中山美穂に似た叔母などがいた。つまり、テレビに出ているタレントや女優並みの美人が親戚にいるという環境に私はいた。器量が良いという文化が、家族の会話に必ずあった。皆、背は低かったけれど。そして器量よしでないほうに母や私はいるのだった。

天地真理に似た叔母は眩しいほどにきれいで、言うなれば、かぐや姫。子ども心に母の姉妹でこの人が一番きれいだと思っていた。若かりし頃、ある県の美人コンテストで入賞したそうだ。隣の隣の県で、うんと遠くもないが、近くもない。どうしてその美人コンテストに出たのか、そのきっかけのほうが今は気になる。その県のゆかりの誰かに推薦されたのかな。その美人コンテストは、ググってみたら現代もあるらしいが、名前が違っていたし、キャンペーンガールを選ぶものだった。


それなら、かぐや姫の叔母にとって、そのミス○○県入賞は、自慢することでもなんでもなかったわけだ。なにしろ、私は本人から直接その話を聞いたことがない。ひけらかさない叔母は立派というか、私は好きなところだった。私にそれを伝えてくれた妹の叔母らは羨望がそこはかとなく漂っていたような気がした。ただ、美人薄命の言葉の通り、かぐや姫の叔母は病を得て、姉妹の中では早く天に召された。月に帰っていってしまったと言うと、いっそう、かぐや姫っぽくなる。

白雪姫に出てくる継母の王妃のイメージに似た叔母がいた。この叔母も美人だった。童話のなかでは王妃は鏡に向かって、自分の美貌を確認するようなキャラクター。叔母には、そんなところ、何かを比較するところがあった。自分ではなく、白雪姫や他の人が一番美しいといわれるのが気に入らないみたいなところだ。

私は王妃の叔母から、子どもはぷっくりした頬をしているのが可愛いと言われたことがある。丸型の顔とか卵型の顔が可愛いという話。私の顔は面長型なので、要するに、私は可愛くないといわれたのだった。それでその叔母の前では、一生懸命、頬をぷうっと膨らませて、なんとか丸型とか卵型の顔に見えるように、いらぬ努力をしたものだった。今ならばかばかしいが、なにしろ子どもだったので、そのときは真剣だった。

家から遠く離れ小人たちの家に住まう白雪姫の運命によく似た叔母もいた。遠く離れたその地で溺愛してくれる王子様に出会うのも童話そっくり。王子様というか、その地の名士の家柄の人と結婚したということだ。その白雪姫の叔母ももちろん美人であった。見染められたのだ。

 

みぽりんの叔母は男性からモテるタイプの美人だった。言ってみればシンデレラ。戦後、祖父母の家が豊かになりつつあるときに、末っ子で生まれ、苦労知らずで皆に可愛がられて育った。そこはシンデレラの童話と違って、鷹揚で華やかな人。美人が入社したうわさを聞きつけて、わざわざ見に来た他部署の人に惚れられて、猛アタックされて、職場結婚したそうな。舞踏会で王子様に見いだされたシンデレラみたい。私の義理の叔父になった人のエピソードで私が大好きなのは、独身時、太っていたその叔父は、叔母が太っている人と結婚したくないと言ったので、ダイエットして以後もスリムを保っていること。


華やかなシンデレラの叔母やのんびりした白雪姫の叔母が、当時の男性から人気だったらしい。女性の思う美しさはかぐや姫の叔母だけど、男性から好まれる美しさはシンデレラの叔母だということだ。それに、こだわりのある王妃の叔母や生きにくさを先取していた、かぐや姫の叔母や私の母などは、メンタルで負けていたかもしれない。特に母など。母は姉妹と連れだって外出したとき、知人に出くわしたりすると、妹がきれいなので、その知人に姉妹に見えないと言われたこともあったらしい。笑い話だけど、なんだか失礼だ。


母の妹たちが美人ぞろいだったのは、イケメンだった私の祖父方に似たからだった。母は残念ながら、イケメン好きでミーハーな私の祖母方に似た。母は童話に例えると差し詰め何だろう。人魚姫かな。長女で、姉妹たちの面倒を見る立場で育ち、何か我慢しているところがいつもあった。人魚姫が声を出せず、自己主張できないみたいに。

 

童話の世界はおしまい。

 

「美しい」を、私を形容する言葉にすると決めた。

To be, or not to be, that is the question.

有名なハムレットの台詞、日本語では、生きるべきか死ぬべきか・・・と訳されたその台詞のbeには深い意味があるのだとか。そのニュアンスは日本語が母語の私はつかめていないけれど、この台詞がいつもよぎる。造詣だけでなく、在り方から美しくなろうと思う。